「1968年」展の感想をブログにアップしたら、友人から電話をもらった。いろいろ感想を述べてくれた。嬉しい限りである。
同時代を生き、人生のある時間を同じ場所で共有した友人が、出会う以前にどこか別々の場所で同じような体験をしていたことはよくあることである。
ある別の友人は、「全共闘体験というのは1960年代末の体験はかなりすそ野はひろいのではないか」といったことがある。「60年安保闘争が政治闘争として収束したのに比べ、社会運動として持続しうとした意志がより広範だったところの違い」だという。これがあたっているかどうかは、私には60年安保闘争体験がないので、わからないとしか言えない。だが、同世代の人間のこだわりの多様さと深さにより、新しい社会運動を包含していたことだけは確かだと思う。
その社会的な異議申し立ての挫折や、政治的な党派や組織の存在の否定的な在りようも含めて、プラスもマイナスも引受けたいという願望はある。しかし個人が引き受けられることは極小である。ひとつの側面でしかない。たったひとつのこだわりや、果たせなかったこと、持続したかったこと、それをどのように体現していくか、文章表現か、現実での実の振舞い方か、生きざまか、考え始めると収拾のつかなくなること甚だしい。
いつも思いは堂々巡りである。それでも年齢という時間によって退化はせずにらせん状に先に進んでいることを願いたいものである。
前回の記事を読み返しながら、変換間違いやね言い回しを若干訂正した。