こんな詩がある。
こわがらない
一芸に闌(た)けた人は
物をこわがらない
老練の仕立て屋は
おそれげもなく高価な布をザキザキ切る
突き抜けた画家は
純白の画布の前でたじろがない
鼻歌まじりの落書きにみえる
・
・
一つの道を窮(きわ)めたひとには
物のほうが嬉々として吸いついてゆく
いいチームのサッカーのボール
陶芸家の手にまつわりついてゆく陶土
腕のたつ大工の削った板はびたと吸いつく二枚
・
・
・
私の使うものは言葉だ
私は言葉をこわがらないか?
否
私は持っているだろうか?
知らず言葉たちをひきよせる磁場を
否 否
未だし嘆きとともに
こわがらない人達を茫然と視る
1971年「詩学」掲載
茨木のり子らしい詩かもしれない。時としてどこか教訓じみて、人についお説教や処世訓を延べたがる老人のようにも思えるときすらある。
わたしははたして言葉を紡ぐ時、「言葉をひきよせて」磁場をひきよせることが出るのであろうか。
私はいつも言葉を選び、俊熟しているうちに言葉を失ってしまう。そして忘却してしまう。
ものごとに大胆になり過ぎて、塾泊の画布のたじろがない画家にはなれない。いや、画家はどんな画家でも、純白の画布の前で緊張し、逡巡し、そしてためらいながら色と形を決めていく。老練な仕立て屋は、ビクビクしながら高価な布の前に立っているのではないか。
ただし、画家も仕立て屋も、ビクビクしながら、決断したら早いのだ。
詩人だって言葉の第一声の前にたじろぎに、恐れおののく自身を見つめているのではないか。
逡巡と決断、決断後の実行、茨木のり子さんは決断の前の逡巡についてどう考えているのだろうか。
こわがらない
一芸に闌(た)けた人は
物をこわがらない
老練の仕立て屋は
おそれげもなく高価な布をザキザキ切る
突き抜けた画家は
純白の画布の前でたじろがない
鼻歌まじりの落書きにみえる
・
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一つの道を窮(きわ)めたひとには
物のほうが嬉々として吸いついてゆく
いいチームのサッカーのボール
陶芸家の手にまつわりついてゆく陶土
腕のたつ大工の削った板はびたと吸いつく二枚
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私の使うものは言葉だ
私は言葉をこわがらないか?
否
私は持っているだろうか?
知らず言葉たちをひきよせる磁場を
否 否
未だし嘆きとともに
こわがらない人達を茫然と視る
1971年「詩学」掲載
茨木のり子らしい詩かもしれない。時としてどこか教訓じみて、人についお説教や処世訓を延べたがる老人のようにも思えるときすらある。
わたしははたして言葉を紡ぐ時、「言葉をひきよせて」磁場をひきよせることが出るのであろうか。
私はいつも言葉を選び、俊熟しているうちに言葉を失ってしまう。そして忘却してしまう。
ものごとに大胆になり過ぎて、塾泊の画布のたじろがない画家にはなれない。いや、画家はどんな画家でも、純白の画布の前で緊張し、逡巡し、そしてためらいながら色と形を決めていく。老練な仕立て屋は、ビクビクしながら高価な布の前に立っているのではないか。
ただし、画家も仕立て屋も、ビクビクしながら、決断したら早いのだ。
詩人だって言葉の第一声の前にたじろぎに、恐れおののく自身を見つめているのではないか。
逡巡と決断、決断後の実行、茨木のり子さんは決断の前の逡巡についてどう考えているのだろうか。