Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

茨木のり子「こわがらない」

2017年11月16日 21時57分27秒 | 読書
 こんな詩がある。

  こわがらない

一芸に闌(た)けた人は
物をこわがらない
老練の仕立て屋は
おそれげもなく高価な布をザキザキ切る
突き抜けた画家は
純白の画布の前でたじろがない
鼻歌まじりの落書きにみえる
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一つの道を窮(きわ)めたひとには
物のほうが嬉々として吸いついてゆく
いいチームのサッカーのボール
陶芸家の手にまつわりついてゆく陶土
腕のたつ大工の削った板はびたと吸いつく二枚
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私の使うものは言葉だ
私は言葉をこわがらないか?

私は持っているだろうか?
知らず言葉たちをひきよせる磁場を
否 否
未だし嘆きとともに
こわがらない人達を茫然と視る

1971年「詩学」掲載

 茨木のり子らしい詩かもしれない。時としてどこか教訓じみて、人についお説教や処世訓を延べたがる老人のようにも思えるときすらある。

 わたしははたして言葉を紡ぐ時、「言葉をひきよせて」磁場をひきよせることが出るのであろうか。
 私はいつも言葉を選び、俊熟しているうちに言葉を失ってしまう。そして忘却してしまう。
 ものごとに大胆になり過ぎて、塾泊の画布のたじろがない画家にはなれない。いや、画家はどんな画家でも、純白の画布の前で緊張し、逡巡し、そしてためらいながら色と形を決めていく。老練な仕立て屋は、ビクビクしながら高価な布の前に立っているのではないか。
 ただし、画家も仕立て屋も、ビクビクしながら、決断したら早いのだ。
 詩人だって言葉の第一声の前にたじろぎに、恐れおののく自身を見つめているのではないか。

 逡巡と決断、決断後の実行、茨木のり子さんは決断の前の逡巡についてどう考えているのだろうか。


本日は結局頭の休養日と休肝日

2017年11月16日 18時39分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は結局何事もなさず、家に引きこもって夕方までは体を休めた。家に引きこもってばかりでは却ってよくないので、夕方に40分ほどゆっくりとしたペースでウォーキングを5千歩ほど。体を動かさないでいると外がとても寒く感じた。
 横浜の気温は13時過ぎで16.7℃。平年並みの気温らしい。

 明後日の夜の団地の管理組合の会議の資料作りは明日と明後日で作りあげなくてはいけない。本日も夜も会議の資料作りで頭を使いたくない。そして休肝日ともしたい。


「無言館」の自作リーフレット

2017年11月16日 13時09分10秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 前回「無言館」を訪れたときには、無言館発行のリーフレットないし案内チラシが置いていなかった。
 そのために簡単な解説と無言館の成り立ちなどをA4裏表のリーフレットを時前で作成してみた。美術館などになじみの方にも伝わるように私なりに作ってみたのだが、目的は果たして達成できたか、心もとない。しかし私が取り上げた4作品の内展示してあった3作品の前では、参加者がじっくりと鑑賞してくれていたことは嬉しかった。
 今回訪れたら、無言館と信濃デッサン館の共通のリーフレットを配布していた。取り上げた作品が重なっているというのはとても嬉しい。
 次回も訪れる機会を作って、信濃デッサン館で村山槐多や関根正二の作品をじっくりと見たいと思う。