「芸術新潮」8月号の「新・仁義なき聖書ものがたり」を気分転換にめくっていたら、エドワード・バーン=ジョーンズの「受胎告知」(1876年)が目に入った。はじめて見る作品である。高さ2.5m✖巾1m余の大作である。
不思議な感じのする遠近法と縦に引き伸ばされた人物像が目をひく。マリアは9等身、天使ガブリエルに至っては11等身近くもある。しかしエル・グレコのように下から見上げることを想定しているわけではないようだ。しかもガブリエルには動きが無く、静かで音の無い世界のような「告知」である。
通常の受胎告知が読書中のマリアであるが、ここではマリアは水甕の横にいて、虚ろな瞳は何ものも見ていない、あるいは認識していない眼のようだ。これは今は使われていない福音書(ヤコブ原福音書)の記述に、「水汲みに出かけたマリアにどこからか声が響き、天の祝福が天使より告げられたが、マリアは声の主の天使を見ることが出来ず、恐れて戻った」という記述によるという。だが、ここに描かれているのは怖れの眼ではない。声の主を探す眼なのだろうか。
マリアの戸惑い・驚き・怖れ・不安・受け入れ等々の感情表現が「受胎告知」の大きなテーマである。このバーン=ジョーンズの表現は公認のキリスト教から一歩引いた場面設定の中に、戸惑いと不安を記しているのかもしれない。
多くの天使ガブリエルがマリアと同一地平近くまで降りてきて、告知するのとも違い、高い位置からの告知である。神の使いとしての「告知」であれば考えられる位置関係でもある。マリアがごく普通の女性として描かれているといえる。近代的な解釈・表現に見えてくる。
背景のアーチの上部には、蛇の誘惑で果実を口にする場面と楽園追放の人類創生が描かれている。原罪と無原罪という不思議な歴史・関係が暗示されている。
天使の衣の不思議に重厚さ、あまりに生々しい羽の模様と身体との関係、大理石と木材の不思議な質感、天使のいる場所の樹木の生々しさ、天使とマリアのリアルな足先の描写‥ひとつひとつに注目すると現実離れしていて、全体としておさまっている不思議な構図にも惹かれる。