Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「近代日本一五〇年」読了

2018年05月01日 22時27分57秒 | 読書
   

 忙しさにかまけてのびのびになっていたが、ようやく「近代日本一五〇年-科学技術総力戦体制の破綻」(山本義隆、岩波新書)を読み終えた。
 とても示唆に富む書であり、そして戦前-戦後をすり抜けてきた日本の科学技術体系の問題点が、整理されている。あの1960年代末の東大闘争をはじめとする全共闘運動で問われたことが、再び50年を経て何事もなかったかのように過ぎ去ろうとすることに、大きな違和を感じている私などにも新鮮に映る。このこと自体が実に悲しい事でもある。

 明治以降の科学と国家体制の問題がコンパクトに整理されている。この論は確かに科学技術史の一側面であるが、同時に明治維新以降の日本近代化への本質的な問いかけにもなっている。

 付箋を貼った個所も多く、いろいろ引用したいところはたくさんあるが、第7章「原子力開発をめぐって」の「岸信介が唱えた、その気になればいつでも核武装できる状態に日本をしておくというこの『潜在的核武装』路線は『すべての産業能力は潜在的軍事力である』というかつての総力戦思想を踏襲したものであり、これこそが、技術的にもきわめて困難で超多額の経費を要する核燃料の再処理と増殖炉建設に日本が固執してきた裏の理由であり、政治の世界において原子力開発が推進されてきた背景である。」という記述を記しておこう。

 最後の「おわりに」は次のように記している。
「日本は、そして先進国とされてきた国は、成長の経済から再分配の経済に向かうべき時代に到達したのだ。この二〇〇年間の科学技術の進歩と経済成長は強力な生産力を生み出したが、‥世界中の富をきわめて少数の人たちの手に集中させることになった。限りある資源とエネルギーを大切にして持続可能な社会を形成し、税制や社会保障制度を通して貧富の差をなくしていくことこそが、現在必要とされている。かつて東アジアの諸国を侵略し、二度の原爆被害を受け、そして福島の事故を起こした国の責任として、軍需産業からの撤退と原子力使用からの脱却を宣言し、将来的な核武装の可能性をはっきりと否定し、‥低成長下での民衆の国際連帯を追求し、そのことで世界に貢献する道を選ぶべきなのである。」

 50年を経てもなお、こだわり続ける作者に共感するところも多い。

 

スマホが突然不具合

2018年05月01日 20時33分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昼に組合の会館について若干の作業。ノートパソコンにインストールするプリンターのCDを拝借して帰宅。これよりインストール予定。
 しかし本日の想定外の事態はスマホの不具合。電源ボタンを押すと画面のライトが消えるはずなのだが消えずに初期画面が表示されたまま。しかも歩数計のアプリが働かない。電池の消耗が早めという症状が出た。
 会館からの帰宅途中で家電量販店で調べてみてもらったが、機器の物理的な不具合や電池の寿命ではないという。試しにいくつかの不使用のアプリをアンインストールの上、アンドロイドのバージョンのアップをしてもらった。7.0から8.0へのアップがスムーズにできると改善するかもしれないという指摘。いっぺんではアップデートはできないというので、とりあえず現在は2回目のアップデート中。都合3回アップデートをしなくてはいけないという。
 セーフティーモードにすると画面の消灯はちゃんと作動している。全体が改善するかどうかは、アップテートの結果待ちということである。しかしこの機種、1年度不具合が発生して昨年の4月末に取り換えたばかり。2代続けて1年しか持たないというのは問題がありそう。他のメーカーの機種のほうが良さそうな感じである。確かに酷使はしているが、1年で故障というのが2台続くというのでは信頼できない。
 8.0へのアップデートのための1時間は近くの喫茶店で読書タイム。もう少しで「近代日本一五〇年」が読み終わる。あまりに時間をかけ過ぎたので、最初のほうはだいぶ忘れてしまっている。
 一冊の本にこんなに時間がかかるとは。忙しい時間を縫って読み切ることこそが当たり前であるのに、忙しさに押しつぶされて愚痴が先行するのは情けないものがある。


原体験にこだわるということ

2018年05月01日 11時18分07秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★河より掛け声さすらいの終わるその日   金子兜太
★陽の柔わら歩ききれない遠い家      金子兜太


 これは金子兜太の最後の9句より末尾の2句。過去と現在、遠い土地と今ここに立つ地平とを自由に句の中に閉じ込めた感のある金子兜太という私の印象からすると、「遠い家」は幼児のときの生家でもあり、そしてもう一つは青春の頃の原体験に基づく「こだわり」とも解釈できる。私は後者にこだわる。金子兜太にとっては戦争という体験をさまざまに捉えて、体験の核となるようなものを作り上げてきた。いつもそこに戻りながら、体験の核となるものを変容させ、拡大し、そして金子兜太流の核を作り上げてきた。
 原体験は原体験として過去の記憶に鎮座しているものではなく、時間と体験の累積とともに変わって行く。だからいつまでたってもそこには到達できない。到達できない苛立ちと不達成感に苛まれることすらあったのではないか。同時にそれなしには自分が語れないという親和性もまた強烈である。この二重性のある原体験、これは自覚的にこだわらない限り忘却の彼方に雲散霧消する。