昨日から本日にかけて読んだのは岩波書店の「図書」6月号。目をとおしたのは16編の内、12編。いつものとおり覚書として。
★ギュスターヴ・モロー美術館の亀 司 修
「(美術館の管理人から)ここの主が生きているときからいる亀だよといわれた思いを持ち、美術館を出ました。その晩、安ホテルの体が半分も沈んでしまうベッドで、私は亀の夢を見たのです。海底で長く生き続けた亀が陸に上がると、それまでの世界はすべて滅び、地上は生まれ変わろうとしていたのです。亀はキョトンとしていました」
さてその生まれ変わろうとしていた世界は亀にとって好ましい世界に映ったのだろうか。亀にとってはどのような溜息か、驚愕か、失望か。あるいは亀はひたすら見ることに徹しているのだろうか。はたまた亀が生まれ変わっていたのか、地上は定常の変化をしていただけなのか、「邯鄲の夢」の世界かもしれない。
★雨 ドナルド・キーン
「年をとるにつれて雨を嫌うようになっていることも確かだが、それでも私は雨が好きだ」
★我が青春の文学 北方謙三
「私が売れないまま書き続けて十年近く経った頃、‥親父が「男は十年だからよ」と言ったんです。「十年同じところでじっと我慢したら、出るものが出るんだ」って。‥親父、あれは本当だったじゃないか。-そう言おうと思ったら、親はいない。父と子って、そういうものなんですね」
私にはこのことばは実感できていない。ひょっとしたらいつかそういうのかもしれないが、多分北方謙三と父親と気持ちの上で、それは父親はすでに亡くなって一方的なのだろうが、和解をしている。どこかで折り合っている。それは羨ましくもある。しかし私は父の死後20数年経っているが、未だに和解はしていない。その目途もまったくない。あくまでも人生の、日常生活の反面教師のままである。
★ふたつの握手とカモメのため息 師岡カリーマ・エルサムニー
★第一回イランカラッテ音楽祭 新井 満
「北海道といえば、先住民族アイヌの台地でもある。‥“イランカラッテ”というアイヌ語をもっと広めたい。‥アイヌ人と和人のコラボレーション(合作)によって行われるのが自然であろう。両者に上下はなく、対等に行われなければならない。そらにその音楽祭は芸術のまつりであると同時に‥、『平和のまつりでもなければならない』」
「出逢いの言葉“イランカラッテ”。アイヌ語で“こんにちは、あなたの心にそっとふれてもいいですか”という意味です。人と人が出会い、夢と夢が出会い、東と西の文化が出逢う。‥『イランカラッテ~君に逢えてよかった~』をイメージソングとする音楽祭へ、ようこそ」
★ヨーロッパ・デモクラシー、危機をくぐりぬけて 宮島 喬
「(移民・難民問題)の解決は、EUと国際社会が取り組むべき戦争抑止外交、開発援助などにかかっているが、重要なことは、各社会で定住し社会の構成員となり、移民出自であれ、同じ住民、市民として生きている人々の共存、共生が拒まれないことである。多文化(多民族)共生、それはヨーロッパ・デモクラシーの欠かせぬ要素の一つだからである」
★恥じ入ること-大石誠之助の「名誉市民」をめぐって- 田中伸尚
★満・和昭・政美 さだまさし
★大きな字で書くこと 加藤典洋
「『人は自分の思いを手本の無い自分の言葉で話すしかない。ここは大学ですから、会話の授業はやりませんよ』。」
フランス語の教師の言葉の引用。
★隷属なきロマンス プレディみかこ
★超絶運転のボンネットバスで、チベットを行く 冨原眞弓
★石室に隠れる少年 三浦佑之
オケ・ヲケ(顯宗、仁賢)の項について以下のように記してある。
「(日本書紀と播磨風土記)の記事が一方通行のかたちで存したわけではない。中央の伝承が痴呆に流れただけではないし、地方の伝承が拾い上げられたというだけでもないということである。それに対して古事記の場合は、その両者からは少し距離をとっているような印象を受ける。繋がりながら一定の距離を置いて離れたところを巡っているとでも云えそうな、微妙な距離感をもって伝えられている。それは、介在する伝承者の違いに起因するものだと思う」