Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

布団の打ち直し

2018年05月15日 23時43分06秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 布団の打ち直しを頼んでおいた。本日の夕刻に出来上がって届けてもらった。打ち直しをしたのは20数年ぶりであった。さっそく布団カバーをしてベッドの上に敷いたら、これまでのが嘘のようにこんもりと盛り上がっている。こんなにもペチャンコになっていたのかと驚いた。このままでは今晩は、ベッドから転がり落ちてしまうのではないか、と危惧している。

 実は家の近くの商店街には布団店がない。妻の記憶では、歩いて15分のところの駅前に1軒あった布団店で以前に打ち直しをしてもらった。だがその店が廃業してしまい、家から30分ほどの商店街でようやく打ち直しをしてくれる店を探し当てた。その店も奥まったところにあり、ふだんは目立たない。ネットで検索したら手広く営業はしているようで、値段も他と比べて低く設定してあった。
 ネットでいろいろ検索したが、打ち直しをしている店は、だいたいが二駅に一軒くらいしかない。それも新しい街・新しい駅では見つからない。古い住宅街や商店街がある駅にかぎられていた。今は、ネットで検索してヒットしないと専門店も忘れられてしまう存在である。しかも布団店という専門店はある意味では絶滅の危機にあるのかもしれない。私の家の周囲では、畳店や銭湯よりも数は少ない。
 今は、布団の打ち直しをする家庭は少ないのだろうか。新しいものに取り換えてしまっている家が多いのかもしれない。


何もしない1日、の決意だったが‥

2018年05月15日 20時32分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 何もしないと決めた本日、だが人間というのは何もしないということはできないものである。何もしないのもさびしくなり、午後には妻とたいした買い物の予定もないのだが、ふらふらと歩いて30分ほどの商店街に出かけてみた。特に買い物をしたり、ウィンドウショッピングを楽しんだわけではなく、学生が行き交う商店街を歩いてみただけ。途中の喫茶店でコーヒーを1杯飲んでみた。
 しかしこの買い物に付き合った以外は何もしなかったに等しい。

 帰宅後は昨日の疲れが出たようで16時から18時まで気持ちよく寝入ってしまった。明日から日曜日までは団地の管理組合の用務をこなす6日間になる予定。


薄暑光

2018年05月15日 11時37分03秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★透くるまで天草洗ひ世に媚びず    橘 信子
★誰か待つよう友の忌の薄暑光     庄司たけし


 第1句、「天草採る」が夏の季語、天草洗う、は天草を採ることで生じる行為なので、同じ夏の季語ということなのであろう。私は天草(てんぐさ)の収穫・加工ないし製品化については知識はまったくない。しかしこの句を読む限り、透けるほどに洗う、という行為がなかなかきびしい作業であることをうかがわせる。それが「世に媚びず」のだという。きっと社会や世の中の流れに違和感を持ちつつ、自分の生活の糧を得る営為に誇りと何ものにも批判されない自負を持っているのであろう。「世」は大きな社会かもしれないし、地域や集団の場合もあるだろうが、ここでは社会一般と理解してみるのもいいかもしれない。具体的なことをいわないもどかしさを感じる人も多いかもしれないが、人間の構え、というものを味わうことができる。「世に媚びず」の中身は問わないことにしよう。

 第2句、いつものように記憶に残る友人の忌日が近づいてくる夏。友の生は作者にきらめくものを与えたのであろうか。誰かを待つ、それは亡くなった友でもあり、その周囲にいた複数の友とのかけがえのない集団体験、共同意識だったと捉えることができる。友の面影を懐かしむ気分と、待ってもやってこないもどかしさとが共存している、と思った。ただひとつ確かなことは、どんな場合でも時というのは元には戻らないという厳然たる事実である。過去は決して再現することはない。

 薄暑光という季語は俳句をはじめて私は知った。俳句独特の語句でもあるようだが、同時に普遍性のあることばに思えている。好きなことばになった。