朝日新聞で次のように報じられた。
シベリアでの抑留体験に根ざした作品群で知られる美術家で多摩美術大学名誉教授の宮崎進(みやざき・しん、本名・進=すすむ)さんが16日、心不全で死去した。96歳だった。葬儀は近親者で行う。後日お別れの会を開くという。喪主は長男泰(たい)さん。
山口県生まれ。日本美術学校油絵科で学んだ後、1942年に応召。中国東北部で敗戦を迎え、シベリアに移送された。49年に帰国後は、東北や北海道で暮らす人々や旅芸人などを描き、67年に「見世者芸人」で安井賞を受賞した。
並行してシベリア抑留時の過酷な体験を元にした作品を手がけていたが、本格的な公表は90年代半ばから。抑留中でも入手できた麻布などを使い、目にしたおびただしい死や不条理を平面や立体で表現した。
98年に芸術選奨文部大臣賞、04年にはサンパウロ・ビエンナーレに日本代表として出品した。07年には、シベリア体験について語った自伝的著書「鳥のように シベリア 記憶の大地」を出版した。
晩年はパーキンソン病を患ったが、不自由な体で制作を続け、個展を開くなど精力的に活動していた。
私は2002年の横浜美術館の展覧会は見ていなかったと記憶しているが、横浜美術館所蔵の「俘虜」は印象深い作品であり、記憶していた。そして2014年4月から開催された「立ちのぼる生命 宮崎進展」(神奈川県立近代美術館葉山)には大きな感銘を受けた。
この感想は、2014年6月20日と25日にこのブログにも記載した。また著書「旅芸人の手帖」の感想を同じく6月28日と7月1日に記載した。
私はシベリア抑留から帰国した直後の北海道を巡りながら描いた作品、そして旅芸人とともに漂白したときの作品にもとても惹かれた。それと並行して世に送り出されたシベリア抑留体験の諸作品との交点がよくわからないまま、しかしどちらの作品群にも感銘を受けている。
初期の北海道を巡った時の「灰色の街 釧路」(1951年)について、こんな感想を書いたのを今でも鮮明に覚えている。
「私が生まれた1951年の日本の北部の景色である。私が見た北海道の景色とは確かにこんな風景である。戦争とシベリア抑留という体験をした画家の見た列島の北の景色と、生まれて間もない私の記憶の北海道の景色とに差を感じない。あるいは私が青年以降に培った北海道・東北のイメージで記憶を潤色しているのかもしれないと疑ってみたが、そこは判然としない。しかし暗く沈んだ街角の木造の家や商店の佇まい、冷たい風に乗って漂う魚の匂い、風に混じる馬糞の乾いた黄色い繊維は、やはりこのような景色である。背後の開放感のない空のくすんだ具合や、後ろの歪んだ家並や妙に傾いた木製の電柱も間違いなく私の記憶と重なっている。客観的な街のたたずまいが同一というのではない。私にはこの絵に込められた人の営みがとても懐かしく好ましく思えた。画家の街並みや人を見る目との共感に驚いた。旅人がふと風景が気に入ってさっと描けるような絵には見えない。そこに定住している人が描くような匂いや視点を獲得しているのではないだろうか。」
さらに「吹き抜ける風のように、孤独な魂の歌を唄いたい。執着するものもなく、失う何物もない。ただ過ぎていくその日のために生きる。」という宮崎進の言葉への親近感と違和感とを手掛かりに宮崎進という作家について格闘を試みたことを思い出している。「冬」(1968年)のこの作品も好きな作品である。
シベリア抑留体験に執拗にこだわりながら描いた「絶望」(1968年)と先の「冬」が同じ年の作品であるのが、私にはとても不思議でこのふたつの作品を結び付けることがいまだにできないでいる。
2014年の展覧会で会場の入口に立っていた「立ち上がる生命」(2003年)もまた忘れられない作品である。最初に目にした時は、よく理解できなかった。この作品単独では理解ができなかった。しかしシベリア抑留体験のさまざまな作品を巡った後に、この作品に立ち返ってみると、異様な存在感、単色の青以上に色がほとばしり出てくるような錯覚を覚えた。
同時に麻袋どいう「キャンパス」はそれ自体としてはあまり感銘は受けない。しかし作品総体を体験してからもう一度会場を巡ってから麻袋のまえに立つと「このたちあがる生命」と同様に麻袋が実に雄弁に何かを語りかけてくる不思議な体験を味わった。
いつかまた回顧展が行われることを心待ちにしている。
シベリアでの抑留体験に根ざした作品群で知られる美術家で多摩美術大学名誉教授の宮崎進(みやざき・しん、本名・進=すすむ)さんが16日、心不全で死去した。96歳だった。葬儀は近親者で行う。後日お別れの会を開くという。喪主は長男泰(たい)さん。
山口県生まれ。日本美術学校油絵科で学んだ後、1942年に応召。中国東北部で敗戦を迎え、シベリアに移送された。49年に帰国後は、東北や北海道で暮らす人々や旅芸人などを描き、67年に「見世者芸人」で安井賞を受賞した。
並行してシベリア抑留時の過酷な体験を元にした作品を手がけていたが、本格的な公表は90年代半ばから。抑留中でも入手できた麻布などを使い、目にしたおびただしい死や不条理を平面や立体で表現した。
98年に芸術選奨文部大臣賞、04年にはサンパウロ・ビエンナーレに日本代表として出品した。07年には、シベリア体験について語った自伝的著書「鳥のように シベリア 記憶の大地」を出版した。
晩年はパーキンソン病を患ったが、不自由な体で制作を続け、個展を開くなど精力的に活動していた。
私は2002年の横浜美術館の展覧会は見ていなかったと記憶しているが、横浜美術館所蔵の「俘虜」は印象深い作品であり、記憶していた。そして2014年4月から開催された「立ちのぼる生命 宮崎進展」(神奈川県立近代美術館葉山)には大きな感銘を受けた。
この感想は、2014年6月20日と25日にこのブログにも記載した。また著書「旅芸人の手帖」の感想を同じく6月28日と7月1日に記載した。
私はシベリア抑留から帰国した直後の北海道を巡りながら描いた作品、そして旅芸人とともに漂白したときの作品にもとても惹かれた。それと並行して世に送り出されたシベリア抑留体験の諸作品との交点がよくわからないまま、しかしどちらの作品群にも感銘を受けている。
初期の北海道を巡った時の「灰色の街 釧路」(1951年)について、こんな感想を書いたのを今でも鮮明に覚えている。
「私が生まれた1951年の日本の北部の景色である。私が見た北海道の景色とは確かにこんな風景である。戦争とシベリア抑留という体験をした画家の見た列島の北の景色と、生まれて間もない私の記憶の北海道の景色とに差を感じない。あるいは私が青年以降に培った北海道・東北のイメージで記憶を潤色しているのかもしれないと疑ってみたが、そこは判然としない。しかし暗く沈んだ街角の木造の家や商店の佇まい、冷たい風に乗って漂う魚の匂い、風に混じる馬糞の乾いた黄色い繊維は、やはりこのような景色である。背後の開放感のない空のくすんだ具合や、後ろの歪んだ家並や妙に傾いた木製の電柱も間違いなく私の記憶と重なっている。客観的な街のたたずまいが同一というのではない。私にはこの絵に込められた人の営みがとても懐かしく好ましく思えた。画家の街並みや人を見る目との共感に驚いた。旅人がふと風景が気に入ってさっと描けるような絵には見えない。そこに定住している人が描くような匂いや視点を獲得しているのではないだろうか。」
さらに「吹き抜ける風のように、孤独な魂の歌を唄いたい。執着するものもなく、失う何物もない。ただ過ぎていくその日のために生きる。」という宮崎進の言葉への親近感と違和感とを手掛かりに宮崎進という作家について格闘を試みたことを思い出している。「冬」(1968年)のこの作品も好きな作品である。
シベリア抑留体験に執拗にこだわりながら描いた「絶望」(1968年)と先の「冬」が同じ年の作品であるのが、私にはとても不思議でこのふたつの作品を結び付けることがいまだにできないでいる。
2014年の展覧会で会場の入口に立っていた「立ち上がる生命」(2003年)もまた忘れられない作品である。最初に目にした時は、よく理解できなかった。この作品単独では理解ができなかった。しかしシベリア抑留体験のさまざまな作品を巡った後に、この作品に立ち返ってみると、異様な存在感、単色の青以上に色がほとばしり出てくるような錯覚を覚えた。
同時に麻袋どいう「キャンパス」はそれ自体としてはあまり感銘は受けない。しかし作品総体を体験してからもう一度会場を巡ってから麻袋のまえに立つと「このたちあがる生命」と同様に麻袋が実に雄弁に何かを語りかけてくる不思議な体験を味わった。
いつかまた回顧展が行われることを心待ちにしている。