Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は通院

2018年10月21日 22時47分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日はまた朝9時に病院の予約。採血をしてから診療科に予約票を提出するので、出来れば8時半過ぎに病院の受付を済ませたいのだが、毎週どうしても9時直前になってしまう。今度こそ、と毎回思うのだが起床出来ない。

 本日はあまり読書が出来ず、少々イライラ。明日は待ち時間の間に「ダ・ヴィンチ絵画の謎」(斎藤康弘、中公新書) を読み終えたい。
 午後からは、本郷台駅前のアースプラザで「古代史セミナー」の講座がある。間に合うかどうか微妙なところである。入院で2回参加できなかったので、是非参加したいところ。
 昨日のみなとみらいの講座も2回参加できなかった。共に残念である。

 本郷台駅までの往復の間、または講座に間に合わなかったときのためのコーヒータイムに読む本をこれから選ぶことにした。

十三夜の月と火星

2018年10月21日 20時13分29秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 JRの駅まで出向いて、100円ショップへ。書見台をひとつ購入。小さいものだが、一応A4も載せられる。使い勝手がいいかわるいか、実際に使用して見ないと何とも言えない。使えなければ108円の無駄遣い。そうなったらやさしく許してもらうしかない。



 一昨日は月のすぐ近くに見えた火星はもうだいぶ西の方に離れている。というよりも月が火星から東へ離れて行った。本日は雲もなく、十三夜としては申し分はない。だが、へそ曲がりの私には通り過ぎる雲がないととてもつまらない。月は雲に隠れたり、半分雲に隠されたり、見えそうで見えなかったり、というのが私の好みである。本日は残念ながらこのような具合にはいかず、ずっと澄んで見えている。

★野仏の片頬照らす十三夜    山本英昭

 月は現代ではますます観念的、そして一過的である。月そのものとして自立的な素材ではないのではないか。この句も野仏が主であり、野仏のあり様のひとつとして月に照らされた常幹が詠まれていると私には思える。月に生活感がないがゆえに成り立つ句、と断定してしまいたくなる。単に私の思い付きだけだろうか。

本日は「後の名月」

2018年10月21日 11時25分58秒 | 俳句・短歌・詩等関連
“十五夜から約1か月後となる旧暦九月十三日の月は「十三夜」「後(のち)の月」と呼ばれており、この日にもお月見をする習慣があります(十五夜と同様、毎月十三日の夜が十三夜ですが、とくに九月十三日を指すことが多いです)。2018年は10月21日です。豆や栗をお供えすることから「豆名月」「栗名月」とも呼ばれます。”
とアストロアーツのホームページ【⇒https://www.astroarts.co.jp/special/2018moon/index-j.shtml】に記されている。
 月の出は15時27分、月が沈むのは日付が変わって3時2分、南中(真南に見える瞬間)は21時11分(東京での時刻)となっている。さいわい本日の横浜市域の天気予報は、深夜まで晴れ、降水確率0%である。

 季語としては「名残の月」ともいう。

★木曾の痩せもまだなほらぬに後の月    松尾芭蕉
★三井寺に緞子の夜着や後の月       与謝蕪村
★稲懸けて里しづかなり後の月       大島蓼太
★すみきつて木の陰凄し後の月       高桑闌更
★後の月水より青き雲井かな        三浦樗良
★静かなる自在の揺れや十三夜       松本たかし


 江戸期の俳句が並んでしまった。最後の句の松本たかしは1956年に亡くなった現代の俳人であるが、ここで詠んでいる内容は古い情景を手掛かりに新しい月と月にまつわる生活感を手繰り寄せようとしているところが気に入った。

 やはり月が身近に、そして生活に密着していた江戸期の句に月の情緒はより生きている。私も月を見る機会は他の方よりも数十倍も多いだろうが、いにしえの人と比べると生活感は希薄。俳句の性格からすれば、生活感の薄い季語はどんどん捨てられたいくべきものだと思う。新しい時代に即した月への感慨というものも欲しいと思う一方、都会の生活の中で顧みられなくなった月、感慨は空洞化し、観念化、固定化してしまうのだろうか。とても寂しいものがある。そうはいっても、能力の欠如ゆえ、自分では何ものも付け加えられないもどかしさが募る。