Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は講座があるが‥

2018年10月01日 23時24分15秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 風もおさまり、虫の音が微かに響いてきて、静かな夜である。昼間は久しぶりに電話やメールが続き、思った以上に疲れたみたいである。本日はもう何もする元気がない。先ほどちょっと長文の文章をアップしたが、これをつくっただけで疲労困憊。肉体の疲労とは違う。何もしたくなくなる。
 コミュニケーション障害とならないように気をつけないといけない。

 明日は古代史セミナーがある。入院中に2回も講座があったので、参加できていない。そして受講料を払っていない。2時間の講座を聴く気力はないが、取りあえず参加して受講料だけでも払わないと落ち着かない。本郷台駅まで往復する冒険を明日は決行してみようと思う。駅から会場までは7分位。電車に乗れば、歩く距離は短い。体力的には困難ではない。
 300人くらい入るうす暗い会場で、2時間パネルと講義を聴き続ける自信はまったくない。途中で退席することもあり得るつもりで、出かけてみることにしたい。
 受講料を払いに行く、という気力が出てきたことだけでも良しとしよう。

数を数えるということ

2018年10月01日 16時39分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 私は小学生の4年生の頃から、数を数えるということが好きであった。函館市から川崎市に移ってきたころ、近くに当時の国鉄の新鶴見の操車場があり、長大な貨物列車が何本もの線路に出入りをしていた。その操車場の上を長大な鉄橋がかかり、その上から貨物車両の本数を日がな数えるのが楽しかった。当時は貨物輸送に占める鉄道の割合がまだまだ高かったころで、一編成で100輌を超える貨物列車が何回も出入りしていた。
 当時、クラスにたまたま気の合った女の子がいて、二人で学校から帰った後、その跨線橋で待ち合わせて、貨物列車を数えていた。ディーゼルで動く気動車が主流で、蒸気機関車も走っていた。煙を吹きかけられ家に帰ると、「服が汚れ」、「顔に煤がついている」と叱られたが、止めなかった。
 そのうちに、数を数えるということが昂じて、バスで川崎駅の繁華街に出るときも、バスが追い抜いた車の数、追い抜かれた車の数などを数えるようになった。
 横浜市内に引っ越してきた時には、相鉄線の車両の数、車内の吊革の本数、駅から家まで10分ほど歩く間にすれ違った人の数、商店の幟の数、家までの歩数‥なんでも数えた。
 中学生になって電車通学になると、駅のホームに立っている通勤客・通学客の数、時刻表に記載のある電車の本数、遠回りをして歩いた歩数、当時珍しかったスーパーで売っている品物の種類‥本当に何でも数えた。
 今の団地に住むようになると、今度は車のナンバーに着目するようになり、歩いていて追い抜かれた車の4桁のナンバーを瞬時に足し算すること、最初の2桁と最後の2桁の数を掛けあわせることを楽しむようになり、ついには反対側の向かってくる車のナンバーでも同じことをするようになった。
 同時にπ、e、素数の平方根、立方根などを小数点以下20桁くらいまで覚えるのが楽しみになった。今でもπは35桁まで諳んじている。
 このころから数を「数える」から「計算する」に、そして「覚える」に少しずつ指向が変わっていったような気がする。「覚える」のは語呂合わせ等で覚えるのが嫌で、数字を頭からそのまま記憶することにこだわった。だいたいが4桁ずつ、時々5桁ごとに区切って覚えた。これも特に法則なく、数字を覚えやすいようにして。
 数字の並びというのは、無理数であっても数字の表れ方に不思議な重複や再現性みたいなものを感じることがある。これに着目すると何となくおぼえられた。
 しかし大学生になってからはπ以外の数は口をついて出てくることはなく、そのまま忘れてしまった。
 就職後、数字を「覚える」ことが苦にならないことに再度気がつき、横浜市役所の内線番号(4桁)をすぐに覚え始めた。いつも連絡を取る5つの局の内線は今でも時々ふっと思い出す。一度掛けると覚えてしまう。少なくとも3回もかけると忘れなかった。自分でも不思議であった。
 覚えるときの癖として、関係する部所と、関連する部所を同時に覚えることがあった。それも二つの内線番号を合計してひとつの番号で覚えるのである。
 例えば「1234」と「3355」が関係する部所で一緒に覚えると便利な時は「4589」とこれを解くカギである「3」を覚えるという風に。この「鍵」が思い出せなくて忘れてしまう時もなくはなかったが、それでも覚えること自体が楽しかった。そして「鍵」付と「鍵」無しが同じ番号になるときがある。これを区別するのは、仕事の中身を覚えることでそれとなく記憶に残る。これは数字を覚える楽しみの一つでもあった。
 数を「数える」ことも続けている。集会所や映画館、音楽界でも椅子の数、参加者数を何しろ数えるのは、退職後も変わらない。

 本日こんなことを思い出したのは、病院の内科の大きな待合室で、待っている人の数を数え、それが6人の医師が対応していたので、待ち時間を推定してみた。そんなゆとりがあることが自分ではとても嬉しかった。入院前には同じ待合室で6時間以上待っていた時にはそのようなゆとりはなかった。思い出しもしなかった。そんなゆとりができたことが嬉しかった。
 帰りには会計を待っている人を数えたりしながら待ち時間のいらいらを忘れていた。


台風一過

2018年10月01日 15時13分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜市域では警報などは解除になった。快晴で湿気もないが、気温は高くそして風がかなり強い。強風・波浪注意報が出ている。昨晩の最大瞬間風速は0時半頃の38.5メートル。現在はどの程度の風か、表示がないのでわからない。しかし洗濯物をベランダに出すのはためらわれる。音もかなりする。
 他の理事の方などが朝早くから団地の中を巡回してくれた。ケヤキなどの枝がなかり落ちていたが、さいわい隣家や公道に団地の樹木の大きな枝や土砂などは出ていなかったと報告をしてもらった。団地内道路に落ちた枝等も処理が進んでいる。
 私は動けなかったが、多くの方の協力でとりあえずは処理はされた。

 私は朝から市民病院で受診。ワーファリンは少しだけ量を変えて処方してもらった。今度は二週間後に予約となった。
 体は少しずつ動かしており、私鉄の近くの駅までの往復は出来る。しかし頭の回転というか判断能力、処理能力にまだ自信がない。咄嗟の判断が今ひとつ遅れたり、考慮すべきことがことつ抜けていたり、と思うようにいかない。そしてその小さなことが頭からなかなか抜けない。ほんの小さなことがとても長く気になってしまう。
 やはりまだ本調子とは遠い。だか、これは場数を踏んで元に戻すしかない。それはわかっているのだが、なかなか踏ん切りもつかない。
 読書や文章を書いて頭の体操をしているつもりだが、やはり人と付き合い、会話を重ねながら回復を図らなくてはいけないようだ。

 さて台風24号は北に抜けたが、次の台風25号の動きも気になる。

瞬間最大風速38メートル越え

2018年10月01日 01時40分48秒 | 天気と自然災害
最大瞬間風速は日付が変わった直後に38.5メートルを記録。雨は峠を越したように思えるが、油断は出来ない。
このような風は40年近く災害対応をしてきたが、記憶にない。

風でいろいろなものが風で飛ばされている音もしている。とてもではないが寝ていられない。

凄まじい風にビックリ

2018年10月01日 00時53分19秒 | 天気と自然災害
 ますます風が強くなっている。南側のベランダからだけでなく、北側の窓からも風の凄まじい音が飛び込んでくる。アルミサッシがギシギシと音を立てている。ベランダの端に寄せていた朝顔の鉢がどうしても倒れてしまうので、横にしたまま脇を他の鉢植えで押さえて固定せざるを得なかった。
 23時ごろの最大瞬間風速が28.2メートと表示されている。気温も22時で26.6℃と高い。南側のケヤキなどの高木も、北側のプラタナスなども枝だけでなく、幹すら揺れているようにも見える。明日の朝、団地の中の樹々がどのようになっているか、心配である。
 特に団地周囲の樹木が公道や、隣接する住宅に倒れて、被害を与えていないか、心配であるが、今は何事もないよう祈るしかない。

 雨・風ともにまだまだ強くなる気配である。雨の区域はレインアイよこはまで見るととても速い速度で南から北に移動している。雨は短い時間だったが80ミリの雨の区域がこの地域を通過していった。神奈川県西部の方が東部よりもずっと雨は強い。
 また竜巻注意情報は神奈川県東部にも出された。

 今晩はどうも熟睡は出来そうもない。