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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「農民の婚礼の踊り」の寓意

2018年10月24日 23時10分42秒 | 読書
 先ほどの投稿の「仕事に復帰したい」という表題の「仕事」は「入院前にしていた退職者会の仕事」の意味です。実入りのある仕事を新たに始めたい、といういみではありませんm(__)m
言葉足らずでした。



 さて本日は引続き「官能美術史」の第3章「画家たちの愛」と第4章「かけひき」。第4章のかけひきの第3節「結婚のあるべき姿」と第4節「結婚の実体」は面白かった。特に第3節では、ピーテル・ブリューゲル(子)の有名な「農民の婚礼の踊り」から読み取れる、ヨーロッパ中世の農村の結婚の形態が興味深かった。

「主役の新郎新婦は画面中央にいる。‥画家の関心はすでにこのふたりを描くことには向けられていない。絵の主役たちは、結婚式にかこつけて踊りまわる農民たちである。‥画面右奥には、手に手をとって、いそいそと森の中に入っいく数組の男女がいる。性行為は当日の夜にさっそく行われる。‥もどかしくも甘い恋愛の手順や駆け引きはここにはない。ふたりは翌日から模擬的な結婚関係に入る。各ペアに与えられた期間はひと月。約一カ月の後、妊娠していれば正式に夫婦となるが、月経がくればペアは解消される。解消されたカップルは、次には違う相手とカップリングする。その方が妊娠確率が上がるからだ。なんとも即物的に思えるが、村全体で労働人口を増やすためには合理的な方法ではあるのだ。」

 さらに高齢の男性と若い女性の「不釣り合いなカップル」についても、具体的な必然性に基づくものである点の説明、女性に課せられる「持参金」という習慣などの合理性なども、興味深く読んだ。

「女性側が持参金を用意する理由は明快である。当時の初婚年齢は、男性が30歳前後で‥女性は20歳に満たなかった。ギルドでの親方資格の‥せいで、男性はひとりだちするまでに年数がかかった。女性はひとりでも多くの子どもを産むことが求められた。初潮さえ来れば、女性ははやくも嫁入り準備が整ったことになる。そして生物学的には女性の方が寿命は長い。女性たちには長い寡婦生活が待っていた。持参金は収入を得る手段の無い女性たちの老後を支えるために、実家があらかじめもたせる年金だった」
「しかしヨーロッパでは長い間、ペストに次いで、女性の死因の第二位を産褥熱が占めていた。出産時に若くして世を去る妻たちはあとをたたなかった。遺された夫は、たいてい同じ年内に新しい妻を迎える。‥子を多くなすという目的のためだ。その妻がまた無くなると、三人目の妻を迎える。夫は年をとって行くが、新しく来る妻は皆16歳かそこらの年齢だ。‥一方で、資産金システムのせいで結婚できない娘たちがいる。当然ながら、それと同数の結婚できない男たちがいる。実際男性のおよそ4人に1人が独身のまま一生を終えていた。‥「不釣り合いなカップル」と呼ばれる主題が流行したのはこうした世相のためである。‥女性のほうは夫を愛しているわけではなく、経済的基盤として見ている‥。‥こうした風潮に対して警鐘を鳴らす真面目なモラル的動機がある。」


 これらの指摘が正しいのか、今後も注目してみたい。




仕事に復帰したいが‥

2018年10月24日 20時00分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 最高気温は、昨日とは6℃近くも高く22.5℃となった。歩くとと汗が滲んできた。透けてしまうような化繊の薄いサマーセーターを着て外出。横浜駅まであるき、地下街の喫茶店に入った時は、セーターをすぐに脱いでしまった。この時期、着るものの選択は難しい。
 昨日図巣ストーブを押入れから出してきたが、本日は点火していない。この分では明日も点火することはなさそうである。

 そろそろ退職者会ニュースの原稿作りを開始する時期になってきた。印刷所との日程のすり合わせを明日夕方までに終えてから、具体的につくり始めることになる。一応写真はある。生地がまだそろっていない。入院中だったこともあり、私は記事を書けない。
 どのように他の幹事・役員と話を進めるのか、まだ頭がうまくまわらない。とっさに「こうすればいい」という風に頭がまわってくれない。今月号でなれれば次回からまたそれなりにうまくまわるのであろうが‥。たった1~2カ月のブランクでここまで頭が回転しなくなるものかと、少し暗い気持ちになってしまう。
 やはり歳、というものを痛切に感じる。悲しいことである。

愚感偶感

2018年10月24日 09時44分19秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 ちょっとだけだが、陽射しがうれしい朝。ベランダで陽射しを浴び、樹々の葉の動きを見た。

 私の場合はやはり家の中に閉じこもっていると頭の中がまったく回らないような気がする。現役時代の長年の習慣で、外で考える、体を動かしながらスケジュールの優先順位を決めたり、これまでのことを反省したり、何かを企画したり、考えをまとめたりなどなど次のステップを模索したりしてきた。

 仕事で、市民からの情報・苦情はそれが手紙でのものであっても、電話であっても、現地に飛んでいって面談する。手紙のやり取りや電話で話したりするよりも、直接現地に出向いて面と向かって、状態を互いに確認しながら話をした方が、処理方針も説得も結論も、早く、そしてお互いに納得ずくで解決する。言葉だけではどうしても齟齬をきたし、不信感ばかりが増幅してしまう。「まずは現地に飛んでいくこと」を先輩に教わりながら身に付けた。40年近いこのパターンがすっかり習慣になってしまっている。
 組合の役員であったが、組合員の疑問や提起はすぐに直接会いに行って話を聞き、行き帰りの電車やバスの中で、反芻しながら次のステップへの反映の仕方を整理した。

 体を動かしながら考える、現場で考える、人と対話をしながら考える、これがモットーと言えはモットーである。付け加えるとすれば、解決の智慧は現場に隠れている、ということぐらいか。先輩からは、知恵は現場にある、といわれたが、現場に行くだけでは見つからない。見つけようとする努力と観察力が必要だと思う。

 見方を変えれば、家の中で閉じこもっていたら、有効に頭を使うことが出来ない。文章を書くにしても、その契機となるものが思い浮かばない。思い浮かべてしまえば、キーボードをたたきながら一定の考えを整理できるし、文章も自然と出来上がる。文章にするとその文章はおのずと自ら展開していくことが多い。だが、その原案のようなまとまりをさらに頭の中で反芻するのはやはり、家の外を歩き回りながらである。外気に体をゆだねながら再度見直す。これをしないといけない。

 このような事態をもたらすのはなぜなのだろうか。先輩からは「職場の中の澱んだ空気よりも外の新鮮な酸素を吸った方が頭の中の掃除にはいいのだ」ということであった。それもそうだが、見ているようで記憶していないが、景色や自然の音、明るい光線、嗅覚、空気の感覚、さまざまな小さな刺激が体全体を通して脳に働きかけるのかもしれない。また体を動かすことで、体内の循環に何らかの効用があるのかもしれない、と考えている。