Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

心の底の熾火

2018年10月08日 22時56分53秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 石川啄木の詩に次のような一節がある。

   はてしなき議論の後
  一
暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に、
時として、電〈いかづち〉のほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども--
・・・・
  二
われらの且つ読み、且つ議論を闘はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜の青年に劣らず。
われらは何を為すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
“V NAROD!”と叫び出づるものなし。
・・・・


 この啄木の詩の世界では、“V NAROD!”という政治的な言語とそれを口にし行動に移すことは、初めから分離されている。観念の世界に対する幻滅として、距離をもって「革命」や「政治」が語られている。

 しかし私が同時代的に接したものは、だいぶ位相が違っていた。

コンクリートにふとんを敷けばすでにもう獄舎のような教室である
雌伏の眼制服の眼 けしゆくへの路遥けば五日帰らず
眼下はるかな群青のうみ騒げるはわが胸ならむ 靴紐むすぶ
鯖のことくカブト光れり われ叛逆すゆえにわれあれ存在理由〈レーゾン・デートル〉
カタロニア賛歌レーニン選集も売りにしコーヒー飲みたければ
振り向けば返り血あびているごときこの夕ぐれを首塚一基
もはやクラスを恃まぬゆえのわが無援 笛噛む唇〈くち〉のやけに清しき
流血に汚れしシャツを脱がんとも掌はひとくれの塩のごとしよ
ここよりは先へいけないぼくのため左折してゆけ省線電車
二日酔いの無念極まるぼくのためもっと電車よ まじめに走れ
               〈福島泰樹「バリケード・1966年2月〉


 この短歌、まさに政治の坩堝のなかに放り込まれた地平にいる。この位相の違いを噛みしめつつ、そうして福島泰樹の世界からも遅れた沙漠を、私はトボトボと歩いてきた。吉本隆明は「福島泰樹の短歌のなかの政治は喪失の歌から、生の裂け目に瞬間的に獲得された光景へと変貌した。‥もはやあのバリケード闘争の原型を幻のように想起すること自体が無意味だという自覚と自信は強固になっている」と述べた。前半は了としつつも、後半部分については、私の心のどこか奥深くで、未だに熾火のように消え去ることはない。

「雪の日に」(吉野弘)

2018年10月08日 18時07分44秒 | 俳句・短歌・詩等関連
  雪の日に

--誠実でありたい。
そんな願いを
どこから手に入れた。

それは すでに
欺くことでしかないのに。

それが突然わかってしまった雪の
悲しみの上に 新しい雪が ひたひたと
かさなっている。

雪は 一度 世界を包んでしまうと
そのあと 限りなく降りつづけねばならない。
純白をあとからあとからかさねてゆかないと
雪のよごれをかくすことが出来ないのだ。

誠実が 誠実を
どうしたら欺かないでいることが出来るか
それが もはや
誠実の手にはおえなくなってしまったかの
ように
雪は今日も降っている。

雪の上に雪が
その上から雪が
たとえようのない重さで
ひたひたと かさねられてゆく。
かさなってゆく。


 吉野弘の詩集《消息》より「雪の日に」。
 吉野弘という詩人、学生の頃は知らなかった。40歳も過ぎてはじめて読んだ。だれかに教わったわけでもなく、ある書店でたまたま棚に「吉野弘詩集」(思潮社)が並んでいたのを手にしたのがきっかけである。中身も読まずに「たまには現代詩を読んでみたい」というだけで、購入した。
 使っていることばはやさしい。時としてこのように処世訓的な詩も書くが、あまり厭らしさや胡散臭さを感じない。
 労働組合の役員をされていた体験が詩の根拠にもなっている。そんなところが親近感の根拠かも知れない。同じ世代では吉本隆明氏も当初は労働組合の役員を体験していた。吉本氏が「転移のための十編」で、表現者への道を歩み始めたとすれば、吉野弘氏はそのような転移ではなく、それこそ労働組合運動の中に身を置いたまま、身のまわりの人びととの関係をひたすらに持続しながら身を処した人と私には思える。
 若い頃はそのような姿勢については理解できないところもあった。いつの間にか私は、転移も飛翔もしないまま、この歳まで身のまわりの人との関係を「誠実」という言葉を意識的に、そして敢えて持続して生きて来た。
 「誠実に」、人は誠実に生きたいのだが、誠実さというのは誠実たらんとすればするほど、いっそう混迷の中に自分を追いやる。何が誠実か、いつも反芻ばかりで答えはないまま定年を迎えるのが、人の常である。誠実たらんとすれば、人に抑圧的に振る舞ってしまうことも避けられない。そんな現役時代のことを思い出させてくれる詩である。

お見舞いのお礼

2018年10月08日 09時53分50秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨晩までは本日の天気予報は晴間も出るということであったが、本日になってみる一日中曇と変わってしまった。その表現も「くもり昼過ぎ晴れ所により朝まで雨」となっている。曇・晴れ・雨、判然としない。どちらにしろ「ハズレ」にはならない。確かに難しい予報なのだと思うので、受け取る側で判断するしかないようだ。
 最高気温の予報は24℃。ベランダに出てみると冷っとしたものの、部屋の中は26℃以上あるので、半袖をきた。たぶん外出するときも半袖のままで構わないようだ。この時期、薄手のウィンドブレーカーはいつも持参している。

 3連休の最後の日、横浜駅界隈の人出はどうなのだろうか。入院中にお見舞いにきてもらった方にお礼を贈ることにした。妻と外出予定。お礼状をこれから作成。どういう文面にするか、悩みどころ。「快気祝い」とするにはまだ早いので、「お礼」ということにした。