石川啄木の詩に次のような一節がある。
はてしなき議論の後
一
暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に、
時として、電〈いかづち〉のほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども--
・・・・
二
われらの且つ読み、且つ議論を闘はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜の青年に劣らず。
われらは何を為すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
“V NAROD!”と叫び出づるものなし。
・・・・
この啄木の詩の世界では、“V NAROD!”という政治的な言語とそれを口にし行動に移すことは、初めから分離されている。観念の世界に対する幻滅として、距離をもって「革命」や「政治」が語られている。
しかし私が同時代的に接したものは、だいぶ位相が違っていた。
コンクリートにふとんを敷けばすでにもう獄舎のような教室である
雌伏の眼制服の眼 けしゆくへの路遥けば五日帰らず
眼下はるかな群青のうみ騒げるはわが胸ならむ 靴紐むすぶ
鯖のことくカブト光れり われ叛逆すゆえにわれあれ存在理由〈レーゾン・デートル〉
カタロニア賛歌レーニン選集も売りにしコーヒー飲みたければ
振り向けば返り血あびているごときこの夕ぐれを首塚一基
もはやクラスを恃まぬゆえのわが無援 笛噛む唇〈くち〉のやけに清しき
流血に汚れしシャツを脱がんとも掌はひとくれの塩のごとしよ
ここよりは先へいけないぼくのため左折してゆけ省線電車
二日酔いの無念極まるぼくのためもっと電車よ まじめに走れ
〈福島泰樹「バリケード・1966年2月〉
この短歌、まさに政治の坩堝のなかに放り込まれた地平にいる。この位相の違いを噛みしめつつ、そうして福島泰樹の世界からも遅れた沙漠を、私はトボトボと歩いてきた。吉本隆明は「福島泰樹の短歌のなかの政治は喪失の歌から、生の裂け目に瞬間的に獲得された光景へと変貌した。‥もはやあのバリケード闘争の原型を幻のように想起すること自体が無意味だという自覚と自信は強固になっている」と述べた。前半は了としつつも、後半部分については、私の心のどこか奥深くで、未だに熾火のように消え去ることはない。
はてしなき議論の後
一
暗き、暗き曠野にも似たる
わが頭脳の中に、
時として、電〈いかづち〉のほとばしる如く、
革命の思想はひらめけども--
・・・・
二
われらの且つ読み、且つ議論を闘はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜の青年に劣らず。
われらは何を為すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
“V NAROD!”と叫び出づるものなし。
・・・・
この啄木の詩の世界では、“V NAROD!”という政治的な言語とそれを口にし行動に移すことは、初めから分離されている。観念の世界に対する幻滅として、距離をもって「革命」や「政治」が語られている。
しかし私が同時代的に接したものは、だいぶ位相が違っていた。
コンクリートにふとんを敷けばすでにもう獄舎のような教室である
雌伏の眼制服の眼 けしゆくへの路遥けば五日帰らず
眼下はるかな群青のうみ騒げるはわが胸ならむ 靴紐むすぶ
鯖のことくカブト光れり われ叛逆すゆえにわれあれ存在理由〈レーゾン・デートル〉
カタロニア賛歌レーニン選集も売りにしコーヒー飲みたければ
振り向けば返り血あびているごときこの夕ぐれを首塚一基
もはやクラスを恃まぬゆえのわが無援 笛噛む唇〈くち〉のやけに清しき
流血に汚れしシャツを脱がんとも掌はひとくれの塩のごとしよ
ここよりは先へいけないぼくのため左折してゆけ省線電車
二日酔いの無念極まるぼくのためもっと電車よ まじめに走れ
〈福島泰樹「バリケード・1966年2月〉
この短歌、まさに政治の坩堝のなかに放り込まれた地平にいる。この位相の違いを噛みしめつつ、そうして福島泰樹の世界からも遅れた沙漠を、私はトボトボと歩いてきた。吉本隆明は「福島泰樹の短歌のなかの政治は喪失の歌から、生の裂け目に瞬間的に獲得された光景へと変貌した。‥もはやあのバリケード闘争の原型を幻のように想起すること自体が無意味だという自覚と自信は強固になっている」と述べた。前半は了としつつも、後半部分については、私の心のどこか奥深くで、未だに熾火のように消え去ることはない。