Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

老いの特権‥

2019年02月22日 23時33分53秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 外は寒くはないが、本日は夜のウォーキングも中止。体も重い。身体的に具合が悪いわけではない。気分がまったく落ち込んでいる。下降気味なのか、底に落ちこんでいるのか、見当がつかない。

 やはりこういう時は寝るに限る。明日の朝、目覚めたときにどのような気分であるか、見極めたいものである。体調や気分と常に会話を続けたいものである。いつ自分にとって危機なのか、探ることができるのもまた老いの特権。

本日の作業は中止‥気分転換へ

2019年02月22日 20時50分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 帰宅後、目がショボショボ、頭も疲れ、夕方から1時間半ほど寝てしまった。先ほど夕食のためにノコノコ起き出してから、1時間半ほど新聞の編集作業。なかなか作業が進捗しない。
 あまりもがいても間違いだらけ、変換ミスばかりなので諦めた。
 明日は午後から県民ホールにヴェルディの「レクイエム」を聞きに行くことになっておりすでに切符も手に入れている。こういう時にかぎって時間的なゆとりがない。一方でこのような時間がないと精神衛生上ますます行き詰ってしまう。
 明後日の日曜日は朝から団地の管理組合関連の会議。昼には終わるが午後にどれだけ挽回できるか、今から不安が先に立つ。

 ここまで記すと、自分の精神状態が良くないことがわかる。悪い方向へ、不安ばかりが先行している。一度リセットするために編集作業から思い切って離れてみた方がよさそうだ。

 読書タイムに切り替え、本日の作業はここまでにしたい。

一日の処理能力

2019年02月22日 16時36分20秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は朝から新聞の編集作業にいそしむ予定であったが、朝9時から15時まで付き添いで大病院へ。二人をつれて一つの病院の中を行ったり来たり、疲れてしまった。
 先ほど帰宅したものの、いくつかの用事があり、ようやくお茶を一服。ひと休みしてから新聞の編集作業に入らないと、入稿期日に間に合わなくなりそう。
 重なる時には急にいろいろなことが起きる。半分お手上げ状態。だが、昔ほどには体も脳も意欲も活発ではない。悲鳴を上げたくなる。

 一日のうちに処理できるボリュームも確実に少なくなっている。それだけではない、種類も限られているようだ。一つのことを10単位できるとしても、二つのことを5単位ずつ合わせて10単位できるかというと、無理だと悟っている。二つののことをするには頭の切り替えが必要である。そのためのエネルギーが必要になる。二つのことを処理するには合わせて6~7位の単位しかこなせないと感じるようになった。

 これが三つのことを一日のうちに処理しようとすると、併せて5単位くらいにまで落ち込むのではないだろうか。ひとつのことをする場合の半分しかこなせないと思う。種類が増えれば増えるほど処理能力は格段に落ちて行くのである。がっかりするが、現実はそんなものである。

読了「若冲」(角川ソフィア文庫)

2019年02月22日 08時34分17秒 | 読書
   

 「若冲」(狩野博幸、角川ソフィア文庫)を読み終えた。
 私としてはとても勉強になったと思う本であった。

 この本では、若冲の生きていた当時の京の文化人、その中でも黄檗宗の禅僧である「売茶翁」「相国寺住職である大典和尚」「萬福:寺住持で渡来層の伯珣」との交流を軸に、若冲という人物を描いている。

 あとがきに
「筆者は人生というものは人と人との交友の中でだけかたち作られてゆくと考えている。売茶翁は禅自体にに幻滅したのではなく、僧という存在にいっさいの疑問を持たず商人を軽蔑することの虚妄を静かな行動で示したのであり、大典ははじめ黄檗禅に入るも‥洛中洛外を転々とする生活を続けながら詩作に耽り思索を深め、ついに相国寺に復帰することを選ぶ。伯珣はいわば鑑真と変わらぬ決意をもって日本に渡ってきた。彼らが若冲という画家を見出し、出会ったときに発生したのは、大袈裟に言えば人と人とのあいだに生じた核融合のようなものだったのではなかろうか。」
と記している。

 また、最近の研究で若冲が単に「絵画オタク」ではなく、錦市場の営業停止の町奉行の方針の撤回に向け、剛直な一面を発揮し粘り強く再開を果たしたことが明らかとなっている。確かNHKの日曜美術館でも取り上げられていたと思う。
 そのことに関して筆者は、
「江戸表へ訴え出ることを決意した若冲は、万が一の場合を考えて、錦小路市場に累が及ばぬように平屋となったのである。‥仮にも幕府の一組織である奉行所に対する訴えであることから、訴え出た本人の命は保証されない。若冲の行動はひたすら冷静だ。自分の命をも賭すことを心に秘めながら、奉行所はもとより仲介者や村々の百姓への根回しを続けた。」「日頃は、隠居して作画三昧の生活に満足げな人物が、いざとなれば、“社会”をこわだかに論じながら実践する胆力のない輩をはるかに凌駕する行動派へと変身する。しかも、落としどころを遠くに見据えながら、慌てることなく着実に歩を進めてゆく。‥若冲がそういう人物であったことを知ったいま、これまで何となく見過ごされてきたことが異なった色彩を帯びて見えるようになる。」



「若沖70歳のとき、伏見奉行や役人らの暴政に立ちあがった伏見町人の代表たちが江戸表へ訴え出て勝訴したが、町人たちにも犠牲が出る。牢死したもの7人は“伏見(天明)義民”として今に至るも土地の人びとの尊崇を受けている。‥若冲の画題のジャンルのひとつに伏見人形図がある。‥若冲が7人の布袋に別の意味を込めた可能性を指摘しておきたい。‥若冲であればこそ「伏見義民事件」の「7人の町人」はひとごとではなかった。」

と記している。
 私は若冲の「伏見人形図」という作品の意味合いがようやく解けた思いがした。

 この本全体はこのように筆者の「知識人論」でもあり、そしてそれに私が共感する場面が多々あった。その中で1968年の九州大学へのF4ファントム墜落事故のエピソードなどもあり、同時代の空気を感じ取りながら読み進めた。