Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

運動靴を購入

2019年05月02日 23時00分03秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 15時ごろになって運動靴が9割程度乾いたと思われるので、思い切って歩いて30分ほどのところにある大型スーパーへ行って、運動靴を購入した。今までの寄りはすこしだけ重いが、ウォーキング用の防水運動靴である。敷き皮も含めて定価は5200円だが、履いていった運動靴を引き取ってもらうと5%引きという店である。税込みで5335円。
 むろん下取りにかかる費用も含めての売値の設定だから、私が多きく得をしたわけではないはずだが、何かとても得した気分になってしまう。そこがお店の狙い目といってしまえば、それまで。素直に喜ぶことにした。
 これまでのようにもっと軽い運動靴もあったが、今回は少し重くとも、この方が便利と判断した。

 明日は退職者会の仲間と都内の集会に参加することになっている。毎年の行動予定に入っている。さっそく明日持参すべき品々をリュックに詰めて用意を始めた。
 11時横浜駅集合ということなので、いつものとおり30分前には集合場所に行っておかないとまずい。早い人は多分10時頃には来てしまう。
 新しい靴を履いて参加する。何となく心が軽くなる。



世に受け入れられないのはわかってはいるが‥

2019年05月02日 20時45分20秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 最近の天皇の代替わり、改元騒ぎのなかで、これまで断続的に私が考えてきたいくつかを思いつくままに記してみることにした。
 法律の専門家でもないし、学者なとではもとよりなく、そして政治家の道は断念している身の中途半端な意見である。

 まず前提として、私はやはり天皇制という王制はない方がいいに決まっている、と思う。私は故昭和天皇を除いて、今の天皇家に繋がる人びとに個人的な恨みも、好悪も持ち合わせていない。一人の人間に象徴だのという立場を押し付け、世襲の人間に国家の元首だの、代表などを付与するのは、近代国家として避けるべきだと考える。一個の個人として基本的人権やごく普通の生活が許されないことは良くないことだと感じている。

 その上に立って、憲法の天皇制の規定はやはりいつかは削除すべきであろう。しかしこれは現在の改憲のとんでもない方向の力関係からすると、今声高に主張すべき時期とも思えない。
 だが、まずは外堀から私なりのこれまでの思いを綴ってみる。

 まずは天皇家と家族としてつながる人びとには、基本的人権が大いに制約されている。少なくとも被選挙権以外の選挙権は今でも付与できるのではないか。政治活動の自由の付与は慎重にならざるを得ないが、天皇制が無化された時点での議論にならざるを得ないと思われる。天皇制を自らの権力欲の道具にしようとする人間がいつ無くすことができるのか、答えは出てこない。
 そして皇室の私的所有を認め、現在の皇室財産の多くは国の一般財産として国家管理にすべきである。私的所有としては生活の糧に限るものとし、古墳などの陵墓、歴史的に伝わるもの、美術品・工芸品などは国立・公立の博物館や美術館、研究所に移管し、公開を原則として管理すべきである。陵墓など神話や言い伝えに関係するものはできるだけそこから切り離して、科学的な解明の材料として公開・保全すべきである。
 現在の「名誉職」としてのさまざまな「総裁職」などは廃止すべきである。
 まだ叙位・叙勲制度自体も廃止すべきだが、最低限、天皇や皇族の関与をすべて制度として排除すべきであろう。天皇による親授などは無くすべきである。
 これらは憲法や法律の規定抜きに実行可能のはずである。
 
 世界で通用しない元号も廃止すべきである。ちなみに「昭和」から「平成」に変わったころ、私も地方公務員であったが、起案文書にはすべて西暦を記入して通していた。どちらでも問題なく使えた。今はどうなっているだろうか。ほとんどの文書管理が電算化され、多分いつの間にか日付は自動的に元号に変えられているような気もする。

 憲法上、天皇の祭祀に絡む行為とその費用については、国の財政支出は認めるべきではない。あくまでも天皇の私的財産の許す範囲で実行すべきものであろう。費用や人員がかさみ、私的財産の範囲で実行不能のものは歴史的行事として公開記録の上、対策を講ずるべきである。

 この上に立って憲法上の「国事行為」を必要最小限にとどめる公開論議が必要である。また天皇家の収入、報酬ということばがいいのかどうかはわからないが、どのように算定し、どのような水準にするのか、これも公開議論すべきであろう。たぶん国会議長程度のものにするべきなのか、わたしにも今のところわからない。

 私はこれらのことは今でもできることは多いと思っている。この思いで世の中を動かすことはできないと知っているが、思いはこんなところにある。
 さて、世の中の人はどのように思っているのだろうか。


八十八夜

2019年05月02日 14時31分46秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 正午ごろ強烈な雨が短時間降った。その後は明るい陽射しが回復した。レーダー雨量計を見ると、まだ県央の一部で弱い雨が降っているが、どうやら雨はこれであがる気配である。
 運動靴はまだ乾かない。この靴、一年半くらい履いている。携帯の歩数計によると800万歩を超えている。もう買い換えた方がよいと思われる。底もだいぶ減っている。ということで新しい靴を購入しに行きたいが、靴がまだ乾かない。購入したら捨ててもらうつもりなので履いていきたいのだが‥。

★人恋えば八十八夜の夜の雨       長尾俊彦
★草も木も水も八十八夜の香       黒田杏子


 「八十八夜」は、立春から88日目で今年は5月2日の本日。季節が夏に変わろうとする節目で、二十四節気の春季最後の「穀雨」の終わり頃になる。八十八夜を過ぎれば種まきや茶摘みなど農作業にとって大事な目安となっていた。そのような季節感がことばの後ろに張り付いているはずなのだが、現在ではそのことばのもたらす重みはすっかり忘れられてしまいそうである。ことばが、その持つ意味合いをどんどん失ってゆく。新しいことばや意味が付け加わっていく。
 昨日に濡れた雨も、ようやく寒さとは切り離された感じのあめであった。かといって梅雨や夏の雨ではなかった。

運動靴が濡れて外に出かけられない

2019年05月02日 10時53分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日も曇りがちの空模様である。朝目が覚めたときは陽射しがあったのに、カラスの賑やかな鳴き交しとともに厚い雲が空を覆ってしまった。
 昨日濡れてしまった運動靴、薄い上っ張り、リュック、洗ったGパン、携帯ようの小さな折り畳み傘などをベランダに干したが、これでは乾きそうもない。
 本日は休め、ということか。

 昨日の「図書5月号」その2の魯迅のことに言及した個所にコメントをいただいた。初めての方で多分仙台在住の方と思われる。とても嬉しかった。片平のそば、米が袋にある魯迅の下宿跡が念公園として整備されるとのことを教えてもらった。ネットで調べたら2年後の2021年3月までには公開されるらしい。
 訪れたいものである。