まるで梅雨のときのような一日であった。路面が一日中乾くことなく、深夜に雨が上がっても街灯にアスファルトが光っている。路面の反射光はどこか暖かみがある。アスファルトは黒いので熱を吸収する。その熱が夜になっても雨のしずくを暖めているのだろう。水に暖かみを感じるのはそのためだろうか。
★病む便り逝く報せ来て走り梅雨 小出秋光
★山低く梅雨入り前の葉山かな 土田和美
「ギュスタープ・モロー展 -サロメと宿命の女たち」を11日(土)に鑑賞してきた。ギュスタープ・モローという名はよく聞くし、印刷物でも「サロメ」は見る機会が多いのだが、具体的にその作品を直接見たのは初めてたど思う。
私は何よりもジョルジュ・ルオーの師として名を幾度も聞いている。ルオーの作品を見るたびにモローの名が出てくる。師弟関係であること、多くの薫陶を受けたことは書かれているが、作品の上でどのような関係なのか、判らなかった。今でもわたしにはわからないことは多い。
今回の展示はモロー美術館の所蔵品展であり、多くの未完成作品もあり、大変興味深い展示であった。
今回の展示は
第1章 モローが愛した女たち
第2章 《出現》とサロメ
第3章 宿命の女たち
第4章 《一角獣》と純潔の乙女
という4つのコーナーに分けられて展示されていた。この展覧会、第2章の「出現」とそのための習作・デッサンなどに大きなかけられている。
「出現」は出来れば今回モローの手元に残された「油彩」の作品と、実際にサロンに出品された「出現」(水彩)を並べてみたいと思ったのだが、今回はそれは果たされなかった。
しかし私が思い込んでいたよりもこのサロメはヘロデ王や母親のへロディアを陰に押し込めて前面に強い存在感で描かれている。その体つきは決してなよなよとした体つきではなく、男性的な強さすら感じさせる。対峙する洗礼者ヨハネの首の鋭い目付きに一歩も引かない。
多分ヨハネの首は幻想の首、劇の中では「ヨハネの首」を所望する以前の予兆的な意味合いでの「幻想の出現」というドラマチックな様相を秘めているのであろう。そういった意味では「預言者ヨハネ」の「死」を演出する「預言者サロメ」でもある。
さまざまなサロメの習作・デッサンがあるが、この形態のサロメがこの構想のサロメとしてわたしには一番受け入れられた。若い十代のサロメが裸体であるのは、そのきびしい意志力を持つともいえる強さが女性の踊り子の服装で隠してしまっては表現できなかったと思わせる。
もうひとつは建物の空間の大きさに感心した。人物はした三分の一、ヨハネの首も全体の高さの4割程度である。上部の6割を超す空間は建物の天井までの空間である。惨劇を予感させる空間として、そして人間を圧倒する空間として、多分のこの広い空間は「運命」であったり、「神」の存在の不可解さの象徴でもあるように受け取った。
図録をいくどか目を通したが、モローが書き込んだという白線による装飾文様の意味が今ひとつ理解できない。それは私の頭が固くなったためだろうが、分からない。空間を広く見せているわけではないし、オリエントの演出の必然性も分からないところがある。これは引続き考えたいと思った。
もうひとつ、ヨハネの首から垂れる赤い「血」のようなもの。私は血の滴りでもあるが、もっと禍々しく脊髄だと感じた。すっぱりときれいに切れた首ではない。残忍に切れ味のよくない剣による半ば打撃による切断、または無理な姿勢から強引に切り落とした首のように見せたかったのではないか。そこに「サロメ」という近代的なイメージの転換をはからされたサロメの性格がより顕著に示されているように思った。