Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は横浜も30℃越えか・・

2019年05月24日 23時32分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日はとりあえずは会議の予定は入っていない。明日は気温がかなり上がるとのこと。気象庁の明日の予報では横浜で最高気温が30℃となっている。急激な30℃越えは熱中症が怖い。症状が出なくとも、暑さで体力の消耗が激しいので、とても疲れると思う。湿度が低いと快適でつい体を動かし過ぎることもある。要注意である。

 午後から読書タイムが取れるかもしれないが、土曜日なので横浜駅界隈などの繁華街では喫茶店は混む。そして明後日が団地の管理組合の総会なので、一応必要な打ち合わせがあるかもしれない。ということで、できれば家にいた方がよさそうである。


リュックに細工を少々

2019年05月24日 21時54分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 暑いくらいの気温、横浜では最高気温が15時直前に28.7℃を記録していた。7月中旬並みの気温で、今年の最高気温であったと記されている。
 梅雨入り前にも猛暑日が来てしまいそうな勢いを感じてしまう。

 先日購入した新しいリュック、多少の手を加えることにした。使いやすいように少しだけ手を加えるのが私のいつもの癖。妻はいつもそのような細工を見て、呆れている。
 サイドポケットにペットボトルを入れてもはみ出して落ちないようにゴムを左右のポケットに付けたり、屋内にいるときに野球帽を止めるものを縫い付けたり、といつも3~5か所程度の細工を行なっている。見てくれよりは機能性重視である。
 今回の細工、綺麗にできるであろうか。針と糸を使って腕の見せどころである。本日の夜と明日の午前中でできるはずである。



本日から「美術の力」

2019年05月24日 20時10分18秒 | 読書


 本日から読み始めた本は「美術の力 -表現の原点を辿る-」(宮下規久朗、光文社新書) 。

「寺社でも美術館でも、その作品が本来置かれてきた場こそが作品に生命力を与えるのだ。作品からこうした場の引力や属性を剥ぎ取って、他の作品とともにニュートラルな空間に並べることによって、作品の純粋な造形的な特質を明らかにするという信念が近代的な美術館や展示という制度を支えてきたのだが、それによって失われるものも大きいのだ。」

「場所の持っている力、いわゆるゲニウス・ロキというものだろう。ドイツの建築史家ノルベルク=シュルツが提唱し、鈴木博之氏が「地霊」と訳したこの概念は、主に建造物の建つ場所や土地の文化的・社会的・歴史的な文脈や雰囲気、人間と環境との相互作用を指すものだが、聖地や巡礼地のような名所旧跡には必ずあるはずだ。千年以上にわたって聖地であり続けたエルサレムには、それが濃厚に感じられる。」


と、まえがきに記されている。

 私はまった同感である。日本美術でも同じであろう。長谷川等伯も狩野派も、城や寺社のしかるべき場所にあってこそ映えるものもあると思われるが、現在は保存の観点もあり、当該の寺社では非公開・鑑賞できない、あるいはごく限られた期間だけの公開作品も多い。

 そんなことを考えながら、神奈川大学の生協に注文した本が手元に届く前に読み終えたいと思っている。

読了「縄文土器・土偶」(井口直司)

2019年05月24日 00時49分02秒 | 読書


 予定より少し時間がかかったが、本日読み終えたのは「縄文土器・土偶」(井口直司、角川ソフィア文庫)。

「世界を見渡すと、人間を表現したと考えられる土製品は、新石器時代の農耕社会に存在します。それらには、「産む力」にかかわる女性の特徴が強調された像が多いことから、農作物の豊穣を祈る地母神崇拝と結びつくという考え方か示されます。‥しかし土器と同じく、当時の日本列島史には農耕や地母神に結びつく要素は見当たりません。」
「縄文土器は、かたちも大きさも、発見される地域も様々で沖縄を除くほぼ全国の遺跡から見つかっています‥。前期になると西日本での発見例がなくなり、東日本に偏在します。‥後期になると再び東日本を中心に数が増え、晩期に向けて分布の中心が東北に移ります。」
「土偶は女性像であるといわれています。‥乳房や妊娠した腹部・女性器・臀部など、確かに女性の特徴を象徴的に表現した者が目立ちます。妊娠期の正中線の表現が指摘されている土偶もあります。‥農耕文化の「地母神信仰」が思い浮かびます。‥その中でも「ヘソ」に対するこだわりには強いものがあります。」
「縄文土器の姿は、女や男でなく、「特別な機能を持つ部分」と産まれる命と失われる命に対する強い意識の表れが、新たな命を生み出す男女の性を包括した、超人間的な精霊体を想像した造形であった可能性があります。」
「縄文土偶には、手足や顔よりも、胴部にある乳房やヘソなどに対するこだわりがます。ところが‥前期までは五体の表現が、人間の造形としては不完全です。前期の終わりころになると、板状土偶の胴部に、抽象的な手足や頭を表現した土偶が登場します。」
「中期以前、‥形そのものは裸体のラインとなっています。それに対して、後期の痩身仮装形土偶は、形態そのものが着衣表現に変化します。晩期の遮光器土偶は着衣性を無視でできません。縄文土偶に人間性がより強く組み込まれるようになった変化ではないかと考えられます。」


 以下はちょっと飛躍しすぎていると思う。もう少し丁寧な展開を期待したいと思った。ただし土偶が人形でも人そのものをかたどっただけのものではないことは理解できる。

「縄文の人々は、超人間的な力を敬い畏れ、精霊体の化身を創造し、そして融合して分身となり、仮装で「人間化」を強め、ついには自然界から人間を遊離させたのではないでしょうか。その大転換点として、縄文時代の中期と後期が浮かび上がってます。」

 いくつか気になった点は、刺青と思われる紋様との断言を著者は避けようとしているように思われることである。後期の仮装形土偶の説明で「髭か刺青」と微妙な表現は出てくるが、断定はしていない。私などは「刺青の風習」として教わったり、読んだりした経験があり、不思議な気がした。
 また裸でなければ表現できない「乳房・正中線・ヘソ・女性器」などの要素が後期になり着衣性が否定できなくなっていく展開にもう少しこだわった叙述を期待したかった。これは別の著者の言及を探した方が良いかもしれない。

 はじめの第1章と最後の第4章は、残念ながらとてもではないが、ついていけない「日本論」である。これはいただけない。縄文の世界と、現代の日本が、その間の歴史を一切飛ばして結び付けられてしまう。あまりに乱暴で安直な飛躍である。残念ながらこの方の著作はこれ以上は遠慮させてもらう。