Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日から「縄文土器・土偶」

2019年05月16日 23時21分11秒 | 読書


 本日から読み始めた本は、「縄文土器・土偶」(井口直司、角川ソフィア文庫)。まだ目次までしか目を通していないが、とてもに置いておく図鑑のようなものとして購入してみた。
 初めての著者なので、縄文時代についてどのような知見を持っているのかとんと検討がつかない。読み進めるのが楽しいといいのだが‥。

拳の作り方に文句を言われる

2019年05月16日 21時53分44秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 私は指を折りたたんで拳をつくるとき、どうしても親指を外に出す。それは親指を中にし拳をつくると軽く痛くなりそして途中から力が抜けてしまう。どういうわけかもう何十年もそれを繰り返してきた。原因はわからない。

 一番困るのが採血や点滴の針を刺す時。多くの看護師が「親指を中にして強く握って」というが、それが出来ない。中には他の指をわざわざほどいて親指を中にして握らそうとする猛者すらいる。「痛いから」というと「どうしてそうなったのか」と聞かれたこともある。
 大半の看護師は指を外にしても強く握っているならば特に指摘はしてこない。私は残念ながら血管が浮いてこないので採血はしにくそうである。申しわけはないと思うが、採血のたびに面倒なやり取り、言い訳をさせられる。どうにかしてほしい、といつも思う。

 入院したり、採血が重なるような病気になると、気分も落ち込んでおり、イライラが募る。ひょっとしたら採血のマニュアルのそんな記載があるのだろうか。もしもそんなことがあるなら記載はやめて欲しいとおもう。

「絵の教室」(安野光雅) その2

2019年05月16日 20時37分43秒 | 読書




 本日読み終わった本は「絵の教室」(安野光雅、中公新書)。
 第3章までは12日に記した。この本では第4章の「自画像の実験」と第4章の「ぽっほの存在」に著者の力がこもっていた。

 いろいろと自画像を描くという実験に臨んだ後、
「いろいろ実験してみて、普通人物画や肖像画を描くときは、写真撮影ではないのですから、陰影とか明暗といったようなことはあまり考えないでいいと気づきました。つまりライティングによって照らし出されるのは、動きを止めた瞬間なのです。これは風景も同じです。私たちが、人間の顔を認識し、その顔を記憶しているのは写真のような瞬間の映像ではありません。時間的にも空間的にも、いろいろな条件の中でそれを見た記憶の総合です。たがら、やはり、写真を撮るような(瞬間的な)デッサンよりも、漠然と認識している自分を絵として描けばいいと思っています。」(第5章 自画像の実験)

「彼(ゴッホ)は点描から印象派の仕事を見てきたはずです。一点一点と色を置いてはみたものの、彼の感情は点を置くという、工芸的な仕事にはたえられなかったのか、点は伸びて線になり、一筆一筆、わたしたちが「タッチ」と呼ぶところの生々しい筆跡になっていきます。それは対象の、たとえば麦畑の麦の姿を克明に写し取る、という考えたではなくなり、麦畑に触発され、ひとりで手が踊りはじめる。その軌跡は一人一人ちがうように、彼の絵は彼の絵画的情熱の痕跡となりました。」(第6章 ゴッホの存在)

「ゴッホに至るまでは、情熱だけで絵を描いたという時代はおそらくなかったのでないでしょうか。ゴッホが現われて、情熱だけで描いていきます。「お金になろうとなるまいと、売れようと売れまいと、とにかく絵を描く。絵を描きさえすればそれでいい。もしかして売れずに終わったかもしれないけれど、それで満足だ。絵さえ描いて居れば満足だ」という彼の生き方が、私たちに何か強く訴えかけてくれます。」(第6章 ゴッホの存在)

「この本の結論は、想像力・創造力が大切なのだという話になります。そしてそれは疑う力とセットになっています。創造性は、想像すること、つまりイマジネーションから始まりますから‥。絵を描かない人でもイマジネーションする力は大切なことです。‥ではどうやって想像力・創造力というものを、人は身につけてきたのか、というと、それは、子どもの時代のあの豊かな時代にあったのだと、この頃深く思うようになりました。」(第7章 イマジネーションと子どもの時代)

夏バージョンの髪

2019年05月16日 10時33分50秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 多分2カ月ぶりだと記憶しているが、1100円の理髪店で髪の毛を夏バージョンにしてきた。1000円の理髪店も、5年ほど前に値上げして65歳以上が1080円になり、今年から1100円になった。

 毎月一回の散髪が今では隔月に近くなってきた。値上げの為ではなく、それほど髪の毛が伸びなくなったように感じているし、また多少伸びていても気にならなくなったことも大きな要因である。68歳近くなって髪の毛のことを気にすることもない。見た目などほとんど考慮していない。

 夏はいつも短く刈ってしまう。今回も1ミリのバリカンで前後左右は刈上げ、残った部分は3センチほどの長さで揃えてもらった。いわゆるスポーツ刈りに近い。今さらではあるが、狩り上げた以外の残った部分、といってもその面積はごくわずかである。それが悲しいと言えば悲しい。
 短いと夏は熱中症にかかりやすい、とも言われた。医学的に見て本当のところはどうなのだろう。

 あまり短くすると夏場はかえって暑く感じるとのことである。確かに汗がダラダラとそのまま頭の天辺から直に目や首回りに垂れてくる。畔を拭うのが面倒であることは確かだ。しかしさっぱりとした気分になることの方がいい。ほとんどいつも野球帽を頭に乗っけているので、汗は一応帽子で止まってくれる。

 これから10月まではこの形を続ける予定。毎月紙を切らないとこの形を維持できないか、あるいは隔月でも間に合うか、髪の毛の元気=伸び次第である。