先ほどの「読了「美術の力」」に★以下を加えてみた。
さて、以下は「荘司福・荘司貴和子展」の感想を少々。
展示の概要は図録の表紙の右側に記載してある。
2009年4月~6月にかけて、神奈川県立近代美術館葉山において、「生誕100年 荘司福展 花、大地、山-自然を見つめて」という全96点が展示された大きな回顧展が開催されている。私はこの展覧会を見損なっている。残念なことをしたと悔やんでいる。2年後の2011年に東京都美術館で開催された「世紀の日本画展」ではじめて荘司福の作品「風化の柵」(1974)を見たときはとても感動した。それ以来、いつか回顧展が開催されないか、期待をして待っていた。
今回は神奈川県立近代美術館所蔵の作品23点が展示されている。前回の葉山で開催された回顧展の図録でも残っていればとても嬉しいのだが‥。こんど葉山まで足を延ばしてみたいと思っている。以前訪れたときはそのことをすっかり忘れていた。
今回の展示を見て回って最初に受けた印象は「白」であった。多くの作品で、白く塗られたところが何しろ印象が強いのである。「白」がこの作品群を解くカギなのかとすら思った。

最初は「千手千眼」(1968)である。京都国立博物館で展示された金戒光明寺の千手観音像に取材しての作品という解説があった。千手観音を見てこのような印象を受け、表現したということに新鮮な印象を受けた。千本の手の印象や千の顔の印象が強く焼き付くのが私の印象だが、千の「眼」と千の手が持つものが作者の眼に強く焼き付いたと思える。そして中央の横に細く鋭く見つめる「眼」が異様である。
眼の描写では、中央の眼の白目部分だけが白で他の眼の白目部分は黒、手に持つ様々な物のの9点のみが白で他は金、黒目の周囲の虹彩も中央を除いて金という彩色である。
この白に私はたじろいだ。仏敵に対して厳しく、衆生に対しては柔和な千手観音の一般的な表情が、この眼によって、相対するわれわれを射すくめるようである。手にする様々な品物のうち白と金で色分けしたそれぞれの意味するところは解らないが、中央の白目に視線を誘導するように配置されていると思える。二本の同心円もまた同様の役割を果たしている。
このように具象と抽象の狭間を飛翔するような表現の作品に私は惹かれる。

すぐそばに展示されているのが「虚」(1969)。カンボジアのアンコールトムでの取材による。作者は「蒼古とした広大な仏跡の音もなく迫りくるむなしさにうたれ、引き込まれるような息をのむ様な思いであった‥」と記している。
私この唇のあまりの生々しさ、艶めかしさに驚いた。唇の向かって左側の白い部分がその生々しい、或いは艶めかしいさまを強調している。左右の天女や女神はヒンドゥーの神のようでもあり、さらに艶めかしい。
「静かに動いていく刻の中で全てのものが形を変え変化して行く、そんな刻々の形にぶつかって、美しいと思ったり、驚いたり、虚しいと思ったり心をゆさぶられる。」
作者は1967年、67歳で文化大革命のさなかに中国にへ趣き、翌年にインド・ネパール・カンボジアを旅行する。なかなか大胆な行動である。



さて、以下は「荘司福・荘司貴和子展」の感想を少々。
展示の概要は図録の表紙の右側に記載してある。
2009年4月~6月にかけて、神奈川県立近代美術館葉山において、「生誕100年 荘司福展 花、大地、山-自然を見つめて」という全96点が展示された大きな回顧展が開催されている。私はこの展覧会を見損なっている。残念なことをしたと悔やんでいる。2年後の2011年に東京都美術館で開催された「世紀の日本画展」ではじめて荘司福の作品「風化の柵」(1974)を見たときはとても感動した。それ以来、いつか回顧展が開催されないか、期待をして待っていた。
今回は神奈川県立近代美術館所蔵の作品23点が展示されている。前回の葉山で開催された回顧展の図録でも残っていればとても嬉しいのだが‥。こんど葉山まで足を延ばしてみたいと思っている。以前訪れたときはそのことをすっかり忘れていた。
今回の展示を見て回って最初に受けた印象は「白」であった。多くの作品で、白く塗られたところが何しろ印象が強いのである。「白」がこの作品群を解くカギなのかとすら思った。

最初は「千手千眼」(1968)である。京都国立博物館で展示された金戒光明寺の千手観音像に取材しての作品という解説があった。千手観音を見てこのような印象を受け、表現したということに新鮮な印象を受けた。千本の手の印象や千の顔の印象が強く焼き付くのが私の印象だが、千の「眼」と千の手が持つものが作者の眼に強く焼き付いたと思える。そして中央の横に細く鋭く見つめる「眼」が異様である。
眼の描写では、中央の眼の白目部分だけが白で他の眼の白目部分は黒、手に持つ様々な物のの9点のみが白で他は金、黒目の周囲の虹彩も中央を除いて金という彩色である。
この白に私はたじろいだ。仏敵に対して厳しく、衆生に対しては柔和な千手観音の一般的な表情が、この眼によって、相対するわれわれを射すくめるようである。手にする様々な品物のうち白と金で色分けしたそれぞれの意味するところは解らないが、中央の白目に視線を誘導するように配置されていると思える。二本の同心円もまた同様の役割を果たしている。
このように具象と抽象の狭間を飛翔するような表現の作品に私は惹かれる。

すぐそばに展示されているのが「虚」(1969)。カンボジアのアンコールトムでの取材による。作者は「蒼古とした広大な仏跡の音もなく迫りくるむなしさにうたれ、引き込まれるような息をのむ様な思いであった‥」と記している。
私この唇のあまりの生々しさ、艶めかしさに驚いた。唇の向かって左側の白い部分がその生々しい、或いは艶めかしいさまを強調している。左右の天女や女神はヒンドゥーの神のようでもあり、さらに艶めかしい。
「静かに動いていく刻の中で全てのものが形を変え変化して行く、そんな刻々の形にぶつかって、美しいと思ったり、驚いたり、虚しいと思ったり心をゆさぶられる。」
作者は1967年、67歳で文化大革命のさなかに中国にへ趣き、翌年にインド・ネパール・カンボジアを旅行する。なかなか大胆な行動である。
