Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

紫陽花の咲きはじめ

2019年05月25日 22時00分03秒 | 俳句・短歌・詩等関連
   

★紫陽花の蔭に目があり見ればなし    加藤楸邨
★紫陽花のあさぎのまゝの月夜かな    鈴木花蓑
★紫陽花忌色なき夢に目覚めけり     徳田千鶴子
★かなしみのはづれより咲く額の花    平井照敏


 第二句、紫陽花と月、なかなか惹かれる取り合わせである。色鮮やかな紫陽花と月の光、これは何回か見ているが、今の時期のまだ色が鮮やかにはなっていない紫陽花と月の光、来月に見られるだろうか。
 第三句、紫陽花忌は、水原秋桜子の忌日。1981年7月17日没。紫陽花の花の終り頃に亡くなったのだろうか。現在の5月末はまだ紫陽花も咲くか咲かないか迷っている頃である。水原秋桜子についてよく語られるのは、高浜虚子と決別し、「近代的な抒情を俳句に籠めた」ということ。私はまだ水原秋桜子の俳句についてほとんど知らない。しかしいつかは勉強しなくてはいけないと思っている。
 第四句、確かにそういわれれば、悲しみは中心からは外れたところに思いがけずに現われる。

震度5弱

2019年05月25日 18時58分22秒 | 天気と自然災害
   

 昼過ぎに家の周囲の散歩に出かけた。外はムッとするほどの暑さであった。横浜市域では13時半で31.0℃を記録していた。今年一番の暑さであった。
 多分この気温が本日の最高気温となりそうである。散歩の途中、アジサイをいくつか見つけた。
 このほかにもガクアジサイが今にも開はじめそうな株を見つけたのだが、家の人らしきが近くで立ち話をしていたので、写真は遠慮した。
撮影出来なかった花はことのほか、美しかったように思えて、惜しまれる。不思議だ。

 千葉県南部の地震、家の傍の喫茶店のテレビで放映していた。発生した時は汗をかきながら歩いていた。その時はまったく気がつかなかった。たぶん振動の多い国道際を歩いていたはずである。報道では、私の住む場所や親族・友人のいるところはいづれも震度2以下であったので、ホッとした。しかし家に戻ってニュースを見るとボーリング場で天上の部材が落下している画面が映し出されていた。
 深度5弱というとやはり家屋被害も発生する。油断はできない。


「青梅」の譬喩

2019年05月25日 11時29分37秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨日に続いて湿度も低く、爽やかな朝。朝の陽気とは違って「ウザイ」オジサンになってみた。

★青梅の落ちて三日の痣の膿む     遠藤誠一
★梅の実の青の豊かさ噛みしめる    藤井潤子
★青梅の青の盛りを拭ふなり      福島 眸
★落ちている実梅の一つ落着かず    京極杞陽



 昨晩、夜の軽いウォーキングをしていると路面に青い梅がいくつか転がっていた。青梅は少年時代や若い頃の喩えによく用いられる。甘酸っぱく「若い」ことの喩えに使われる。だが「青い=若い」は「若さゆえ」ということで忘却の彼方に追いやったり、比定することは自分を否定することでもある。それは出発点であり、常に現在の自分を照射する原点として向き合いたい。そうやって生きてきた。
 そんな意味合いを読み込んでも構わない句を4句ほど集めてみた。作者は違うというかもしれないが・・・・。
 第一句、失敗や間違いだけでなく為してきたことも、日が過ぎてからうずいてくる。うずきとは、常に向き合わなければならないという身体からの警告でもある。しかし向き合い癒すのは常に自分一人である。
 第二句、第三句、出発点にすべての要素が萌芽しているはず。拭い去る、というのと、拭う、は違う。拭うという語には、愛おしさが込められている。
 第四句、現在から過去を見る視点は定まりにくい。「現在」を見定めようとすればするほど、過去も同時に揺れる。

 本日は実景とは程遠い感想・妄想に近いものを綴ってみた。勝手読み、牽強付会、と云われそう。私もときどき「ウザイ」オジサンになる。