本日はだいぶ回復してきたと思う。食欲も出てきた上に、食べた後の胃の付近の違和感も消えた。背中の鈍痛も消えてなくなった。
何が原因だったのかという、疑問は残るのだが、症状が消えるとその疑問に対する執着も消えてしまう。月曜日の診療でこだわって担当医に聴くことを忘れないようにしないといけない。
先ほど久しぶりに萩原朔太郎の詩を読んでみた。中学生の頃が懐かしく思い出された。ただしその表現を当時はとても新鮮に聞き、そして声に出して読んだけれど、すぐに飽きた。詩集を最後まで、そして幾度も読もうという思いは湧かなかった。そのまま今迄過ぎてきた。
詩の背景には家族の崩壊という無惨な背景があるにもかかわらず、そして「わがが人生は有りや無しや」と漂白しつつ、静かな秋の夕日の美しさに浸る抑制された心情をうたう。さきほど読んでみて、ずいぶん端正な詩を書いた人だなぁという思いは湧いた。私自身は心のどこかで常に端正でありたい、という思いが強いが、それを受け入れるかというとまた違ってくる。私の心が天邪鬼なことは否定しない。しかし取り上げた詩は端正に仕上がり過ぎている。
あるいはそれが萩原朔太郎という詩人の人気の秘密なのかもしれない。
何が原因だったのかという、疑問は残るのだが、症状が消えるとその疑問に対する執着も消えてしまう。月曜日の診療でこだわって担当医に聴くことを忘れないようにしないといけない。
先ほど久しぶりに萩原朔太郎の詩を読んでみた。中学生の頃が懐かしく思い出された。ただしその表現を当時はとても新鮮に聞き、そして声に出して読んだけれど、すぐに飽きた。詩集を最後まで、そして幾度も読もうという思いは湧かなかった。そのまま今迄過ぎてきた。
詩の背景には家族の崩壊という無惨な背景があるにもかかわらず、そして「わがが人生は有りや無しや」と漂白しつつ、静かな秋の夕日の美しさに浸る抑制された心情をうたう。さきほど読んでみて、ずいぶん端正な詩を書いた人だなぁという思いは湧いた。私自身は心のどこかで常に端正でありたい、という思いが強いが、それを受け入れるかというとまた違ってくる。私の心が天邪鬼なことは否定しない。しかし取り上げた詩は端正に仕上がり過ぎている。
あるいはそれが萩原朔太郎という詩人の人気の秘密なのかもしれない。