Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

端正であることとは‥

2019年05月11日 23時24分31秒 | 読書
 本日はだいぶ回復してきたと思う。食欲も出てきた上に、食べた後の胃の付近の違和感も消えた。背中の鈍痛も消えてなくなった。
 何が原因だったのかという、疑問は残るのだが、症状が消えるとその疑問に対する執着も消えてしまう。月曜日の診療でこだわって担当医に聴くことを忘れないようにしないといけない。

 先ほど久しぶりに萩原朔太郎の詩を読んでみた。中学生の頃が懐かしく思い出された。ただしその表現を当時はとても新鮮に聞き、そして声に出して読んだけれど、すぐに飽きた。詩集を最後まで、そして幾度も読もうという思いは湧かなかった。そのまま今迄過ぎてきた。

 詩の背景には家族の崩壊という無惨な背景があるにもかかわらず、そして「わがが人生は有りや無しや」と漂白しつつ、静かな秋の夕日の美しさに浸る抑制された心情をうたう。さきほど読んでみて、ずいぶん端正な詩を書いた人だなぁという思いは湧いた。私自身は心のどこかで常に端正でありたい、という思いが強いが、それを受け入れるかというとまた違ってくる。私の心が天邪鬼なことは否定しない。しかし取り上げた詩は端正に仕上がり過ぎている。
 あるいはそれが萩原朔太郎という詩人の人気の秘密なのかもしれない。


萩原朔太郎の忌日

2019年05月11日 21時21分19秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 明日の午後の会議の資料は夕食前に印刷・製本が出来上がった。明日の午前中と午後が団地の業務と会議。会議終了後は月曜日の通院のために静かにしていたい。

 5月11日は萩原朔太郎忌。1942(S17)年に亡くなっている。「晩秋」は1934(S9)年刊行の詩集「氷島」におさめられている。1930年頃の作と思われる。

   晩 秋

汽車は高架を走り行き
思ひは陽ざしの影をさまよふ。
静かに心を顧みて
満たさるなきに驚きけり。
巷に秋の夕日散り
舗道に車馬は行き交へども
わが人生は有りや無しや。
煤煙くもる裏街の
貧しき家の窓にさへ
斑黄葵(むらさきあおい)の花は咲きたり。
                 --朗吟のために--


 岩波文庫の「萩原朔太郎詩集」(三好達治選)を何となくめくって目についた詩である。1929年の離婚が色濃く反映していると思われる。



「ギュスタープ・モロー展」より帰宅

2019年05月11日 15時49分02秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 先ほどギュスタープ・モロー展から帰宅。説明を受けながら2時間半近くタップリと鑑賞することができた。モローの作品は好きである。むかしからいくつかの作品は理解できないながら好きであった。惹かれる理由もわからなかった。今でも分かったわけではない。
 ルオーの師にあたる、ということも知っているが、モローの作品の印象とルオーの作品の印象が私の頭の中ではまったく結びつかなかった。
 今回は特にこのルオーの作風との共通点は何か、ということも念頭に見て回った。
 まだ頭の中でまとまっていないができるだけ早くそれなりのまとめをしてみたい。

 まだ胃の調子は完全ではないので、朝もワンタンスープとバナナの食事だった。12時半値に新橋駅にもどり、空腹感があったので、喫茶店で柔らかい生パスタと紅茶を食べてみた。食後の吐き気もなく何とかなった。しかし2時間半立ちっぱなしだったこともあり、横浜駅からは歩かず、バスで帰宅。

 これより明日の会議の資料の打ち出し。昨晩出来た資料に気がついて修正を施して取りあえず完成した。印刷・製本をしておきたい。