
本日の読書は古書店で300円で購入した「絵の教室」(安野光雅、中公新書)の前半部分を読み終わった。いつものように覚書としていくつか。
「イマジネーションの世界でも、自然の秩序にしたがっていないと、存在感のとぼしいものになり、わたしたちがリアリティと言っている意味での説得力を持つことができない‥」(1.空想の宿題)
「技術と創造性との関係は、ある種のせめぎ合いの関係にあるような気がするですが、この見方は「絵」にかぎり、絵を離れて「デザイン」や「工芸」「音楽」にまで広げることができるかどうかじしんがありません。」(2.絵と真実)
「その人の個性を尊重する、その人の絵に対する考え方を尊重し、他律的な遠近法には束縛されないようになった--これが今日の絵のあり方だというふうに言えると思います。」(3.遠近法の実験)
「ようやく、好きなように描けばいいんだと悟り、外国の町や、人の見ているところでは「僕はもともと下手なんだ、頭も足りないんだ、絵が好きなだけなんだ」と、自分に言い聞かせます。そうして、世間の目の中で、まったく自由な世界を創って、その中で描くのです。その頃から描くことがより楽しくなりました。これは、いわば悟りでした。」(3.遠近法の実験)
第3章の「遠近法の実験」はとてもいい。実際に「見取り枠」を使った実験はむかし美術の時間に実際にそれに近いことをやったこともあり、とても興味深く読んだ。実際にはそれによって写されたものは使い物にならないのだが、これについて
「もし目の前にいる人を、見取り枠の示すとおりに描いていたとしたら、肝心の舞台全体が見えなくなります。またときによると、目の前の人が遠くの建物よりも大きくなります。写生といっても写真のように撮っているわけではないのです」
とも記している。当然と言えば当然なのだが‥。
