Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日は店じまい

2019年08月09日 23時33分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は眼科の診療ですっかり草臥れてしまった。読書を続けたくとも視界がかすんでしまいなかなか元に戻らない。テレビを見ても字幕が良く見えない。
 このブログを作っていても、これまで以上に勘で変換、確定している。まずはワープロソフト「一太郎」で原稿を作っているのだが、実際に出来上がるものよりも画面を150%の拡大してようやく判読している。
 それをブログの投稿画面にコピーして貼り付けているが、ここからはほとんど勘で処理をしている。見にくいこと限りない。瞳孔をひらく薬の作用が長く続いているようだ。

 ということで夜のウォーキングもやめた方が無難である。早めに就寝して明日の回復を期待するしかない。

 


長崎忌

2019年08月09日 20時26分13秒 | 俳句・短歌・詩等関連

★原爆忌腕鈴なりの電車過ぐ       隈治人
★首上げて水光天に長崎忌        五島高資

 第1句、わたしのもつ歳時記には秋の「原爆忌」の項に入っている句である。たぶん句の出来た背景には長崎があるのであろうと理解している。原爆の日、しかし人びとは勤めに、通学に満員電車やバスに乗って職場や学校に出かける。
 追悼の日の在り方を作者なりに、そして読者なりに考えてみる。この俳句が出来た時期はいつ頃なのだろうか。それによっても喚起されるイメージはいろいろである。

 第2句、「水光」は水面に太陽などの光が反射して輝くようすをいう。「首上げて」がどういう状況なのか、ちょっとわからないが、私は「祈りの場で背をまっすぐに正したとき」という場面を想像している。人間、敬虔な祈りの気持ちになる時というのはあると思う。その対象がどのようなものかは人それぞれで、自然や観念の創り出した神であったり、あるいは亡くなった家族であったりいろいろであろう。そこに長崎忌という季語が配された。
 忌日、それも多くの死者を出した原爆投下の日。「水光」が原爆の閃光なのか、希望の光なのか、鎮魂の思いなのか、閃光ではないと思っている。


長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典「長崎平和宣言」

2019年08月09日 18時28分56秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 本日は病院に長時間滞在したので、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を見ることはできなかった。以下は長崎市のホームページより。

 目を閉じて聴いてください。
 幾千の人の手足がふきとび 腸わたが流れ出て
 人の体にうじ虫がわいた
 息ある者は肉親をさがしもとめて
 死がいを見つけそして焼いた
 人間を焼く煙が立ちのぼり
 罪なき人の血が流れて浦上川を赤くそめた
 ケロイドだけを残してやっと戦争が終わった

 だけど……
 父も母ももういない 兄も妹ももどってはこない
 人は忘れやすく弱いものだから あやまちをくり返す
 だけど……
 このことだけは忘れてはならない
 このことだけはくり返してはならない
 どんなことがあっても……

 これは、1945年8月9日午前11時2分、17歳の時に原子爆弾により家族を失い、自らも大けがを負った女性がつづった詩です。自分だけではなく、世界の誰にも、二度とこの経験をさせてはならない、という強い思いが、そこにはあります。

 原爆は「人の手」によってつくられ、「人の上」に落とされました。だからこそ「人の意志」によって、無くすことができます。そして、その意志が生まれる場所は、間違いなく、私たち一人ひとりの心の中です。

 今、核兵器を巡る世界情勢はとても危険な状況です。核兵器は役に立つと平然と公言する風潮が再びはびこり始め、アメリカは小型でより使いやすい核兵器の開発を打ち出しました。ロシアは、新型核兵器の開発と配備を表明しました。そのうえ、冷戦時代の軍拡競争を終わらせた中距離核戦力(INF)全廃条約は否定され、戦略核兵器を削減する条約(新START)の継続も危機に瀕しています。世界から核兵器をなくそうと積み重ねてきた人類の努力の成果が次々と壊され、核兵器が使われる危険性が高まっています。

 核兵器がもたらす生き地獄を「くり返してはならない」という被爆者の必死の思いが世界に届くことはないのでしょうか。  そうではありません。国連にも、多くの国の政府や自治体にも、何よりも被爆者をはじめとする市民社会にも、同じ思いを持ち、声を上げている人たちは大勢います。

 そして、小さな声の集まりである市民社会の力は、これまでにも、世界を動かしてきました。1954年のビキニ環礁での水爆実験を機に世界中に広がった反核運動は、やがて核実験の禁止条約を生み出しました。一昨年の核兵器禁止条約の成立にも市民社会の力が大きな役割を果たしました。私たち一人ひとりの力は、微力ではあっても、決して無力ではないのです。

 世界の市民社会の皆さんに呼びかけます。

 戦争体験や被爆体験を語り継ぎましょう。戦争が何をもたらしたのかを知ることは、平和をつくる大切な第一歩です。  国を超えて人と人との間に信頼関係をつくり続けましょう。小さな信頼を積み重ねることは、国同士の不信感による戦争を防ぐ力にもなります。  人の痛みがわかることの大切さを子どもたちに伝え続けましょう。それは子どもたちの心に平和の種を植えることになります。

 平和のためにできることはたくさんあります。あきらめずに、そして無関心にならずに、地道に「平和の文化」を育て続けましょう。そして、核兵器はいらない、と声を上げましょう。それは、小さな私たち一人ひとりにできる大きな役割だと思います。

 すべての国のリーダーの皆さん。被爆地を訪れ、原子雲の下で何が起こったのかを見て、聴いて、感じてください。そして、核兵器がいかに非人道的な兵器なのか、心に焼き付けてください。

 核保有国のリーダーの皆さん。核不拡散条約(NPT)は、来年、成立からちょうど50年を迎えます。核兵器をなくすことを約束し、その義務を負ったこの条約の意味を、すべての核保有国はもう一度思い出すべきです。特にアメリカとロシアには、核超大国の責任として、核兵器を大幅に削減する具体的道筋を、世界に示すことを求めます。

 日本政府に訴えます。日本は今、核兵器禁止条約に背を向けています。唯一の戦争被爆国の責任として、一刻も早く核兵器禁止条約に署名、批准してください。そのためにも朝鮮半島非核化の動きを捉え、「核の傘」ではなく、「非核の傘」となる北東アジア非核兵器地帯の検討を始めてください。そして何よりも「戦争をしない」という決意を込めた日本国憲法の平和の理念の堅持と、それを世界に広げるリーダーシップを発揮することを求めます。

 被爆者の平均年齢は既に82歳を超えています。日本政府には、高齢化する被爆者のさらなる援護の充実と、今も被爆者と認定されていない被爆体験者の救済を求めます。 長崎は、核の被害を体験したまちとして、原発事故から8年が経過した今も放射能汚染の影響で苦しんでいる福島の皆さんを変わらず応援していきます。

 原子爆弾で亡くなられた方々に心から哀悼の意を捧げ、長崎は広島とともに、そして平和を築く力になりたいと思うすべての人たちと力を合わせて、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。

  2019年(令和元年)8月9日             長崎市長 田上富久


白内障の手術を予約

2019年08月09日 17時38分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は市民病院の眼科で白内障の手術についての検査と診断。11時の予約出合ったので、15分前に受けつけ。しかし検眼等の後、診察は12時20分過ぎ。診断後、採血・心電図ののち会計を済ませたのが14時半過ぎ。

 瞳孔を開くための点眼薬はなかなか強烈。地下の眼科の待合室から1階にあがり会計をすまそうとしたらまず明るくて、クラクラ。支払を済ませて病院を出ると眩しくタクシー乗り場までが一苦労。道路の白泉、ガードレール、欧文防止柵があんなに白く浮き出て光るものだとは思わなかった。眩しくでタクシーの窓から道路を見ることができなかった。

 家に入ると今度は暗くて、足元が見えない。靴を脱意だ後、床にスリッパがあるはずだが、暗くてそれも見えない。妻に手をひかれるようにしてリビングルームに入るとちょうど良い軽さに思えた。暫くしてようや厳寒や便所の暗さに慣れた。しかし今度はベランダに出るとやはり眩しい。白い雲と青い空がほとんど酒井がわからない。また手摺りも白く輝いて遠近感が湧かなかった。

 スマホとテレビは見ることができたが、そのうち寝てしまい、先ほどようやく目が覚めた。少しばかり元に戻ったようだ。しかしまだベランダから白い雲を見ると眩しい。

 医師と相談の結果、10月にまずは右目を手術し、その様子から左目について判断しようということにした。医師がいうにはそれほど白濁はしていない、とのことであった。しかし夜の車の前照灯が眩しい事と、パソコンの字がうまく読み取れないことを告げると、手術した方が良いようだ、と判断してくれた。

 9月末に手術を受けるにあたっての詳細の説明が行われ、10月の手術日を予約した。