
本日ようやく読み終わった本は「ゴヤⅠ スペイン・光と影」(堀田善衛、集英社文庫)。久しぶりに堀田善衛の著作を読んだ。読み進めるのに手間取ったのは表現に慣れるまでに時間のかかったことと、やはり目の視力の衰えで鮮明に活字が見にくい事、そして年齢とともに衰える気力と持続力であろうか。
しかし言い回しなどに慣れてきたので第2巻以降はもう少しは早く読めそうな気はする。
いつものように覚書風に。
「われわれには一つの先入観年がこびりついている‥。いわゆる片手にコーラン、片手に剣という言い方に象徴される不寛容さについてである。‥スペインのイスラム王朝には武断政治の風はなかった。‥(聖ビセンテ教会には)常識的には二つの相容れなぬ宗教とされていたものが平和裏に共存していた。すなわち、聖書とコーランは、同じ建物を強要していた‥。」
「メッカをのぞむ水平方向の信仰と天を仰ぐ垂直信仰とが、ここだけで共存していたのである。」
(スペイン・光と影)
「ヨーロッパの王家、王や女王というものは、支配者であることはいうまでもない事ではあるが、彼らは実はヨーロッパを股にかけて王様業というものに従事している‥。‥この王室経営業という、今日のことばで言えば、いわゆる多国籍企業の、ある地域の代表者のようなものであった。‥だから王位継承戦争なるものも、複数の多国籍企業間の争いと、その利害調整のようなものである。‥スペイン王室の近衛兵は、代々スイスとベルギー南部のウォル-ン人のやとい兵であった‥。王室家業の多国籍企業の代表者がウィーンの本社から来ようが、別の企業のパリ本社から来ようが、‥民衆の側にとっては大した違いではなかったのである。」
「ゴヤは、二〇世紀の今日から見て、‥もっとも独創的な画家であったが、‥その歩みを仔細に辿って行ってみれば、飛躍とか、自由、かつ独立して自分の画風を伸ばすということよりも、時代の画風への順応と同化に細心の注意を払って努力していることの方が眼につく‥。後年の彼の仕事の独創性や、永遠な新しさなどは、彼自身の気質にさからって出て来たものであった‥」。
「(絶対的権力を持っていたイエズス会の聖職者たちが一斉に逮捕された光景は)昨日までの絶対的権威が今日は銃剣で追われて行く。一度それを見た人は、決して忘れないであろう。」
(マドリード)
「マドリードにおける「イエズス会修道士の追放令の発布とその布告の実施」についての‥二枚の作品はともに現在では行方不明となっている‥。政治を執り行う側としては、この事件は一日も早く民衆に忘れ去ってもらいたい、後ろ暗いところのある事件であったのであるから、それらのことを画布に記録などしてもらいたくはなかったであろう。ゴヤは「躊躇することなくその時代のテーマを描いた」。それは画期的なことであった‥。」
(ローマへ)
「一人の芸術家にとって、若き日の放浪というものが、後年にいたって如何に大きな意味をもつものであるかということが、しみじみとわかる年齢に筆者自身もが達してしまった‥。一人の芸術家に接して、この仕事振りを見ていくについて、もっとも大切なものは想像力なので会って、想像力を欠いては、‥芸術に関する限り、鑑賞や研究の名にさえ価しない‥。‥一人の芸術家、一つの作品に接すること自体が、‥一つの伝説形成への過程なのである。その伝説形成のためには、ゆたかな想像力を必要とするであろ。」
(ふたたびサラゴーサへ)
「(スペインの)社会の上層部における、独自の文化の不在である。他の西欧中心部の風俗へのイミテーションと同化のための努力は、スペイン独自のものを消す作用をしていた。それはある程度まで、ヨーロッパのもう一つの辺境である、ツァリスト・ロシアと同じ歩みを持つものであった。‥しかしスペインの、とりわけカスティーリァの高原、岩だらけ、ごろた石だらけの沙漠の初期のような自然の中にあって、自然に帰れ、とは何を意味したものであったろうか。」
「彼は、一人の地下生活者を、彼自身のなかに内蔵していたのであった。これは、今のところは、まだ彼自身によつても認知されていない、同居者のようなものであった。」
(王立サンタ・バルバラ・タピスリー工場)
「自己が重要な人物である、と自信をすればするほど苛立ちやすい、怒りっぽい人物になるということも人性の自然の一つであった。」
(アカデミイ会員=ゴヤ)
「若き日のゴヤは、その生と死の密着したむき出しのスペインを、宮廷と、高位聖職者の位置からしてみようと努めている。‥しかし努力というものには限界があるであろう。いつかはむき出しの現実が、ぬっとその怖ろしい顔を突き出して来るであろう。そのとき、彼のなかに息を詰めて棲息しているもう一人の地下生活者が、彼に現実の何たるかを突き付けるであろう。」
(自画像)
この第1巻の解説は作家の高橋源一郎氏である。
「イスラム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒の「夢のような」平和共存は、現代のもっとも重要な深刻な問題だし、「現実の飢え」はいまも世界中で再生産されている。‥さらに国民国家の対立や狂信的な愛国心が世界大戦を招いたことを考えること、「キリスト教共同体」としてのヨーロッパや、中枢にいるのが外国人ばかりという政府は、なんだか、これも夢のような気がしてくる。‥敗戦直後の、「天皇制」の崩壊を暗示している‥。‥堀田善衛はそのことを「決して忘れな」かったのである。」
「堀田善衛はその生涯にわたって「戦乱」を描き続けた。「戦乱」と対峙した人々を描き続けた。彼らの戦いの中に、ついに「戦乱」を超え、「戦乱」を終結させるヒントを探ろうとしたのである。二十一世紀の日本でも「戦乱」は起こっているのではないだろうか。若者は就職難で苦しみ、長びく不況は、労働者たちを「飢え」させはじめている。膨大なホームレスの出現は、まるで、前の戦争の直後のようだ。そして、人びとの間に鬱積した不満は、中国や韓国に向かい、不気味なナショナリズムが鳴動しようとしている。」
堀田善衛はゴヤとスペインの歴史を語りながら、日本という国の、それも日本の戦争体験、敗戦に至る体験、時代背景を対象化しようとしていると感じる。それがなかなか私の気持ちを惹きつける。そこにいろいろの創造や飛躍を自分なりにしてしまい、それが時間がかかってしまった側面も否定できない。読む楽しみ教えてくれていることは確かだ。第2巻以降にも期待したい。