私は大規模な「坂本繁二郎展」を1970年の「追悼展」(日本橋、東急)、そして2006年の「石橋美術館開館50周年記念」(ブリヂストン美術館)の2回も見ることができた。今回で3回目、幸運といえば幸運である。実は1970年の追悼展は私の頭の中では「ブリヂストン美術館」で見たとばかり思い込んでいた。しかし先ほど再確認したら図録には「日本橋、東急」と書かれており、これまでブログで記載してきたことは訂正しなくてはならない。
2006年の展覧会がブリヂストン美術館であった。何しろ49年前の高校3年生の時の遠い記憶なので、許してもらいたい。
さて今回の「没後50年 坂本繁二郎展」は、
第1章 神童と呼ばれて 1897-1902年
第2章 青春-東京と巴里 1902-1924年
第3章 再び故郷へ-馬の時代 1924-1944年
第4章 成熟-静物画の時代 1945-1963年
第5章 「はなやぎ」-月へ 1964-1969年
という構成になっている。
第2章では、青木繁との交友が窺われるものが展示されている。青木繁の「坂本繁二郎像」というスケッチ、妙義山へのスケッチ行などの青木繁の資料、そして青木繁の「海景(布良の海)」(1904、石橋財団アーティゾン美術館)、同じく青木繁の絶筆「朝日」(1910、佐賀県立小城高等学校黄城会)などの作品はあまり見ることがないので興味深く見ることができた。
特に「朝日」は図版でしか見たことがなく、実際に見ると彩色が鮮明で、大きくうねる波と空の雲の対比、太陽の光のグラデーションに惹きつけられた。
このコーナーの坂本繁二郎の作品では妻を描いた「張り物」(1910)と対面出来た。3回目の対面である。太陽の光が反射した布地は、あまりに輝き過ぎているが、これが坂本繁二郎の「観察」なのである。
今回は、雄大な景観と身近な景観との差はあるものの青木繁の絶筆の「朝日」の光の描き方と相通じるような印象を受けた。ただ単に近くに展示してあったからの印象なのだろうか。とても気になった。
今回取り上げるのは3作品。「張り物」の外に「魚を持ってきた海女」(1913、石橋財団アーティゾン美術館)、と「髪洗い」(1917、大原美術館)の3つの作品に共通して描かれている白い洗面器がとても気になった。
「張り物」(1910)では人物の手元を照らす太陽の赤い光に呼応してやはり光を放っているかのような白い洗面器は、赤い色面を囲む白い曲線(画面上部右から左へ、そして白い前掛けから洗面器へ、右端の白と青の模様の布地、右上に直線で伸びる白っぽい柱)という色彩の配置の一環である。この赤と白の対比に置かれただけでなく、光を発する硬質の素材として底面に赤が反射し、工夫した色彩配置の重要な役割を持っている。
それに引き換え「魚を持ってきた海女」(1913)ではどこか唐突で、異様に浮き上がって見える。洗面器だけが異様に白く輝き、色彩のバランスに首をかしげてしまいたくなる。白い洗面器の役割が私にはよくわからなかった。洗面器以外の描写とどこか人を食ったような海女の表情と姿勢、背景の松の形は配色、下側の魚や各種の器の色彩はうまく収まっているのだが‥。
そして三枚目の「髪洗い」(1917)は、髪を洗う妻と下半分の白い台と洗面器がすっかり分離している。これは画家の二つの興味、あるいは意識の分裂のように思えた。人物を描く暖かみのある光や色彩のグラテーションへのこだわりと、硬質な台と洗面器の質感と光のグラデーション、この二つの要素の統一がうまく処理しきれなかったのだろうか。
面積的にも洗面器とそれが載っている台は異様に大きい上に白い色彩で、全体の構図から見ると人物とのバランスが崩れている。そして白い洗面器は、実に丹念に描かれている。少しばかりの青や赤味を施され、後の静物画の色彩を予見させるのではないか。
そしてこれ以降、渡仏期を除いて坂本繁二郎は人物画への興味を次第に失っていくのではないかと、いうのが私の印象である。ここで描かれた人物についてはひょっとしたらルノワール的な描写なのかとは素人の私の印象である。人物も表情が窺うことも出来ず、体の輪郭も朦朧としている。存在感は確かにある。
人物の存在感と、顔の表情とは違うのだということが、49年前の私にそれとなく示唆してくれたように今になって気がついた。
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