Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「処暑」

2019年08月25日 23時19分22秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 やっぱり頭が満足に回っていない。15分ほどのごく短いウォーキングの後、シャワーを浴びてから、妻と会話をしていたら、うまく話がかみ合わない。今日が月曜日と思い込んでいた。本日のいつの時点から月曜日だと思い込んだのか、不明である。
 少なくとも朝、NHKの日曜美術館で原三渓を取り上げた番組を見たのは覚えている。その後、退職者会ニュースの原稿の手直しが生じたので、明日に目を通してもらうつもりで印刷所等に送信した。このときもまだ日曜日という認識があった。
 また夕方横浜駅に出向いて、文房具を探した。その時も人出の多さを見て、「日曜日であること」を再認識している。ということは、19時から21時の間に、頭の中が日曜から月曜に切り替わってしまったということになる。
 どうも釈然としない。何がいけなかったのか、単なるもの忘れなのか。
 あまり考えても落ち込むばかりなので、とりあえずは忘れてしまおう。

 さて一昨日が二十四節気のうちの秋の二番目の「処暑」のはじまり。「暑さがおさまる」という意味という。これから15日間で涼しさがやってくるのだろうか。もっとも34℃を切るようになったのだから、暑さのピークは過ぎている。
 すくなくとも、高くて白い細かな雲、湿度の低く心地よい風、27℃くらいの気温、細く長く響く虫の声、これがないと秋という感じがしない。

★水平に流れて海へ処暑の雲       柿沼 茂
★水うましうましと処暑の木曽にをり   菅 美緒
★カサルスのセロ聞えくる処暑の朝    堀島濤平

 確かに秋の大気にチェロの音はいい。「鳥の歌」が響くと空が高くなる。


本日は休養日・休肝日

2019年08月25日 20時21分53秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨日は少し呑み過ぎたようだ。どうもスッキリしない。血圧は特に高くはないが、だいぶお疲れモードである。どうじにあまり頭が回らない。午前中にアップした記事の内容を夕方に思い出せなくて随分悩んだ。外出していても、スマホを見ればすぐにわかることなのに、それをしないで、思い出そうとしていた。
 家に戻ってからようやく思い出した。

 さて、本日の最高気温は14時半過ぎの31.4℃。34℃からは2.5℃ほど低いだけなのだが、とても低く感じた。31℃台と34℃台、ずいぶんと体感に違いがある。34℃台では外出をしたくなくなる。

 昨日の坂本繁二郎展の感想はまだ手を付けていない。やはり夕方からは飲み過ぎだったのか、気力が湧いてこない。今晩は無理をせずに、早めに就寝した方がよさそうである。


「秋」を感じる朝

2019年08月25日 11時18分12秒 | 俳句・短歌・詩等関連

  昨晩は23時過ぎに横浜駅から少しばかり遠回りで歩いて帰宅した。いつもより時間にして10分位多めに、バスが通らなくなったバス通りに沿って歩いた。川沿いの道から急な登坂を経て尾根道に出る。いつも夜のウォーキングをする尾根道である。少し涼しくなったとはいえ、この急な上り坂で大汗をかいた。
 歩いている途中でいくつもの蝉が道路上で短く鳴き、バタバタともがいているのを目にした。中には車道の真ん中でもがいている蝉もいた。車に無惨に轢かれる蝉も多いのだろうか。
 家に着くとすぐに風呂場でシャワーを浴び、温めの浴槽で一息。深酒と軽いウォーキングの後はこれがわたしにとっての贅沢、至福の時間である。

 本日の湿度は10時現在で58%、それほど低くはないのだが、暑さが少し和らいでいるので、気持ち的には「秋」、「初秋」を感じた。
 ベランダには蝉が一匹(蝉は「頭(とう)」と数えるのだそうだが、どうもピンとこない)死んでいた。

 午前中から昼にかけて、チラシの原稿をA4一枚作成予定。これを送信して本日の無償労働は終了。

★落蝉の眉間や昔見しごとく     山口誓子

 クローズアップした蝉の貌。少年の頃に蝉取りをして見つめた蝉の貌を思い出したのだろうか。落蝉の貌は昔見たそのままであった、というのが句意である。だが、山口誓子だから、そこで終わらせているとも思えない。

 以下、私の穿ち過ぎの勝手な解釈というか、印象を述べてみる。

 成人してから蝉の貌を間近かで見ると、その相貌のごつさ、魁偉なつくりに驚き、そしてたじろぐ。ひょっとしたら普段知らない自分自身の存在の怖さに気がつくこともあるかもしれない。蝉の貌に自分の知らない怖ろしい自分を見てしまったのかもしれない。あっさりと「昔見しごとく」としるされているが、それは「見た」という動作が昔と今とで同じ、というだけだ。
 今はもっと何か別のものを見出している。成人して、「怖さ」を知ったのである。その「怖さ」は人によって違う。読み・感じた人それぞれが「どきっ」とする戸惑いを作者がどこかでそっと覗いている。