Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

心地よい疲労

2019年09月20日 23時11分41秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 先ほどようやく帰宅。結局のところ往復をほぼ歩いてしまった。約2万歩ほど。昨日の疲れは取れないまま、無理をしてしまった。いつも体を酷使する場合は無理をしてしまってから反省をするのが、20歳以降の私のパターンである。10代の頃は体を使うことは嫌いだったが、大学生になって2年目からは毎年体力をいたぶるのが趣味のようにもなってきた。
 社会生活ではどんな仕事でも、どんな職種でも体力を使うこと、瞬発力ではなく持続的に動かし続けることが大切と、ビルの躯体のコンクリート打設の補助作業という肉体労働のアルバイト先で教わった。大型トラックの助手をしながら積み下ろしの補助をしているときも同様のことを言われた。水道工事の掘り方のアルバイトをしているときには経理をしている年配の方からも「体力がないと現場でも社内の経理も使い物にならないよ」といわれた。
 言われた時は具体的にわからなかったが、横浜市に努めて道路管理・下水道管理の第一線職場の事務職に配置をされて、やはり「現場事務所では、事務・技術・技能という職種にこだわっては仕事にならない」といわれ、配属されて2か月後の梅雨時の水のあふれた個所での土嚢積みから鍛えられた。
 学生時代のアルバイト先での体験がとても役に立った。

 本日は疲れたので、昔のことをふと思い出した。これ以上かき続けることは、体力的に困難。明日こそは昼まで休養したい。太腿より下の筋肉が痛くなりそうである。

 


赤蜻蛉

2019年09月20日 15時17分17秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 布団は取り込んだ。洗ったシーツもそろそろ乾いた頃、取り込んで畳んで本日の作業は終了。これより本日の講演の行われる山下公園前のワークピアへ、出来るだけ歩いて向かう。
 ワークピアまでは家からすべて歩くと約1万歩。昨日はたくさん歩いて疲れがまだ完全には回復はしていないので、全部は歩くつもりはない。また途中で一服したいもの。
 帰りはかなり遅くなりそう。

★言分(いひぶん)のなき空合や赤蜻蛉    井上井月

 井上井月(いのうえせいげつ、1822-1887)は主として明治期に今の長野県伊那谷を中心に漂泊した俳人。2012年に岩波文庫で「井月句集」が復本一郎氏の編集で刊行になり、ずいぶん注目された。
 言分を現在の意味「いいたいこと、主張」で解釈してもいいようだ。「言いわけ」「申しわけ」という意味でも良いかもしれない。申し分のない秋晴れの広々とした空、信州の空であろう。意味合いは単純、「言分のなき」という人の世の言葉を使って自然をうまく言い表していることにふと心を引かれた。
 時にはこのような句に心を動かされる。


赤蜻蛉・秋あかね

2019年09月20日 12時05分29秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 9月の下旬、朝から気持ちの良い秋晴れの日となった。湿度が低く、風もない。本日は今年初めて赤蜻蛉が建物の南側の芝生の上を飛んでいた。1匹だけ。しばらくベランダから見ていた。止ることはなく、せわしなく飛び回っていた。
 蜻蛉というのは、人の目には蝶のように飛び方が不規則である。蝶のように細かい動きではない。しかしス~ッとまっすぐに飛んでから、不意に方向を変え、短くホバリングする。まるで何かをためらっているかのように。この不規則性が見る人を飽きさせない。人は複雑な動きでもそこに規則性を見つけると、その時点で見ることに飽きてしまうものである。

★赤とんぼ洗ひざらしの靴二足      山内てるこ
★赤とんぼ死近き人を囲み行く      永田耕衣

 第1句、靴は幼児の靴と想像。むかし隣との境界の竹格子の尖端に靴を干していた。十代の少年少女の運動靴よりも通学前の子の靴の方が赤蜻蛉には似合う。ただし残念なことに、不思議なことにきれいな靴よりも履き続けて汗のにおいの沁みついた靴の方が蜻蛉は寄ってくる。この句の赤とんぼは靴ではなく、竹に止りたいのであろう。
 第2句、「死近き人」とは病人等ではないと思う。歩いている人を囲んで赤蜻蛉が人の進む方向に同じように移動していく。それも蚊柱ではなく、赤蜻蛉である。赤蜻蛉に囲まれているその人は、ひょっとしたら死が近い人なのかもしれない、という生の不安、あるいは「ちょっと先は闇」を予感させる。そして赤蜻蛉は作者にしか見えない、囲まれている人には見えないのかもしれない。なんとも怖い句である。作者は阪神淡路大震災にも遭遇し、住居を喪っている。そんな状況を反映した句なのか。
 もっと穿った読み方をすると、この赤蜻蛉に囲まれた人は、読む人が心の中で怨嗟している人かもしれない。そこまで読んでは、読む人の心が怖い。作者である詠む人はそんな心は持ち合わせていないと思う。詠む人と読む人、心の在り様がすれ違う。

 さて、本日は親の住んでいる部屋に出向き、窓をいつものとおり開け放し、部屋の空気を入れ替えた。そして間もなく退院するのに併せて、布団を干し、シーツを洗濯しして干した。
 妻は同様に我が家の布団干しとシーツの洗濯。