Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「ゴヤⅡ マドリード・砂漠と緑」読了

2019年09月08日 23時57分43秒 | 読書

 

 本日読み終わった本は「ゴヤⅡ マドリード・砂漠と緑」(堀田善衛、集英社文庫)。

 解説は鹿島茂氏である。まずは解説には「堀田善衛の文学的テーマは、‥「人と社会」あるいは「人と時代」、これである。」「フランコ政権下だったスペインをはじめて訪れたとき、堀田善衛の頭にあったのはスペイン市民戦争‥であったに違いない。‥堀田善衛にとって同時代的な出来事であり、義勇兵として参加したマルローやオーウェルは身近な存在‥。だが、‥彼はスペイン市民戦争だけを描いたのでは無意味であると感じた。苛烈な内戦をもたらした根源的な理由はスペインそのものの歴史と社会にある‥」と記している。
 これはこれで肯定するが、私はそれだけではないと思う。堀田善衛はゴヤの生きたヨーロッパの同時代の戦争と革命の時代史を書きながら、「革命」「知識人論」を語り、近代日本の社会の成り立ちや問題点、分析を同時に行っている。それが堀田善衛の大きな魅力なのである。
 欧州の西の「辺境」と規定するスペイン、それは東の「辺境」のロシアとの対比の中で記述されている。これもまた堀田善衛ならではの視点である。そしてアジアの「辺境」日本にも焦点が当たる。

 さていつものとおり、覚書風に抜き書きをしておく。

「作家にしても画家にしても、人は一応のぼりつめたその頂点でとまってしまうことが多い‥。後は、成功作の自己模倣がはじまる。‥創造ではなく自己増殖である。いや、自己模倣、自己増殖からいい方である。‥始末に負えぬのは、成り上がりのぼりつめたその頂点での名声をバネにして他の分野への転業をしていく連中である。‥もっともやさしい分野は、政治の世界である。」(友人マルティン・サバテール)

「あらゆる芸術家には、自己を隠したい、表現したもの、されたものが、それは自分ではない、それは客観的表現である、として、作品の陰にかくれたい、それで自己であるという秘密を守りたいという、自己顕示欲の逆の欲望もがある。芸術とはある意味でこの自己撞着のかたまりである」(もう一人の侯爵夫人)

「近代とは、つまりはわれわれ自身なのである。万人が、この世界全体も、神も、大魔王も、政治や経済さえがわれに関係なしとしては生きられぬ時代の開始である。‥18世紀末は、近代の執行猶予期間のごときものである。」(スペイン・光と影)

「病苦と聾であることによって孤独のなかに閉じ込められたとき、それまでの彼のまわりに立てまわされていた壁が、いや、より正確には彼自身が立てまわした壁が、音もなく、崩れ去っていったのである。それはゴヤにとって、全世界を喪失したかのような感を与えるものであったろう。‥、宮廷画家の世界-それこそは彼が少年時代からひたすらに首を長くして希求し、翹望してきた唯一の全世界であった。彼はこの“全世界”を喪って、はじめて“現実”を得たのである。」(一七九二~九三年・悪夢)

「彼は決して“病的”な画家などではない。彼の新たに発見する世界は、彼の“病的”な想像や新しい不安、ないしは病気そのものから発生してきたものではない。‥彼は幻視の画家でも、幻覚の画家でもない。怪物どもに取り囲まれて、精神の蔭の部分にうずくまっているのでも決してない‥。」(一七九二~九三年・悪夢)

「この人(ゴヤ)はすでに神と王と祖国のために、などというスローガンにちょろりとやられたりはしなくなっているのである。」(マヌエル・ゴドイ -青年宰相)

「彼(ゴヤ)自身のコメントは「理性に見放された想像力は、ありうべくもない妖怪を生ぜしめる。理性と合体せしめられたならば、想像力はあらゆる芸術の母となり、その驚異の源泉となる」という、あたかも“近代”の出発を宣言するかのようなものであった。」(「バンと闘牛」・知識人たち)
「宗教画‥から完全に離脱したこの風俗画は、西欧における「革命」というものが、キリスト教が本来的にもっていた社会理想
を人民の側に奪取することを意味していたとすれば、それは「革命」的、と呼ぶことも出来るかもしれない。」(バドゥアのアントニオ聖人)

 


横浜市金沢区瀬谷区の一部「土砂災害の警戒レベル4」

2019年09月08日 21時40分57秒 | 天気と自然災害

   

 横浜市域には、「大雨(土砂災害、浸水害)・洪水・暴風・波浪警報」と「雷・高潮注意報」が出ている。さらに神奈川県下に竜巻注意情報も出た。

 8日20時、土砂災害の危険性が高まっているとして、金沢区と瀬谷区の一部に【警戒レベル4】の避難勧告が発令となっている。 【⇒https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/bousai-kyukyu-bohan/bousai-saigai/wagaya/fusuigai/taifu/20160615135644.html

 私の住んでいるところでも1時間半ほど前から、時間雨量5ミリ程度の雨が降り始めている。風も少しだが吹き始めた。
 台風15号、これから明け方までが本番のようだ。昨年は団地でも瞬間最大風速50メートルということで大きな木が倒れた。心配である。
 明け方まで雨が烈しいという。風もかなり強いらしい。本日は夜のウォーキングは当然ながら中止。


秋の気配 2

2019年09月08日 20時29分19秒 | 俳句・短歌・詩等関連



 私の住む団地に萩が植わっている。毎年きれいな花を咲かせる。擁壁の天端に植わっているので、維持管理上は好ましくはないが、今のところ大きな問題とはなっていない。
 今年も枝が下に向って伸び始めてきた。まもなく花芽が目立つようになるはずである。
 雨の後の黒い石垣に萩の花びらが貼りついているのが美しい。また擁壁の下のL型側溝にも大量に花が落ちて目を楽しませてくれる。

★秋風のやや肌寒く吹くなべに萩の上葉の音ぞかなしき (新古今集・秋上、藤原基俊)

 新古今集の時代とは違って2019年の秋は、残念ながらまだまだ涼しい風など遠い存在である。微かな気配すら感じない。
 この句、叙景歌として情景を思い描いておしまいなのだろうか、とふと思った。新潮社の日本古典集成の註では降れていないが、「萩の上葉の音」がひょっとしたら衣擦れの音かもしれない。
 これは男女の後朝の別れ、或いは来なくなった男を恨む歌と解することもできるのかと思った。そんな解釈は無理のかもしれない。自信はない。根拠もない。単なる思い付きとして‥。

 


秋の気配

2019年09月08日 13時00分41秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 鉄筋コンクリートの建物に居ると、朝起きたとき意外と暑い。私の目が覚めるときは朝の8時、すでに太陽があがり、袖なしの下着一枚で汗をにじませている。
 以前、木造の戸建て住宅に住んでいた時は、9月になると朝は二の腕に寒さを感じたものである。季節を感じる身体の部位や、季節の感じ方が変わったのではないか、と思うようになった。それは仙台から横浜に戻って、木造の隙間風の入る学生用のアパートから今の公団の団地に舞い戻った20代前半のときであった。季節を肌で感じることに自覚的になろうとした。

★この寝ぬる夜のまに秋はきにけらし朝けの風のきのふにもにぬ (新古今集・秋上、藤原季通)
(大意:寝ていたら一晩のうちに秋はやって来たのか。秋になったばかりの残暑が厳しい時期だが、やはり朝の風にはこれまだとは違って涼しを感じる)

 この歌の前には、
★いつしかと荻の葉むけのかたよりにそそや秋とぞ風も聞ゆる (新古今集・秋上、崇徳院)
(大意:いつの間にか荻の葉を一方向になびかせて、さあ秋が来たと風が知らせてくれる)

 四首後ろには、
★伏見山松のかげより見渡せば明くる田の面に秋風ぞ吹く (新古今集・秋上、藤原俊成)

 秋の風を音で感じるか、温度で感じるか。私などはどうしても視覚に頼りがちである。視覚以外の他の五感で感ずるとそこに驚きがついてくる。俊成の歌のように視覚で感じる場合、新しい視点などを強調しないと月並みに感じてしまう。



 さて、団地の片隅に芒の穂を見つけた。見つけて写真を撮った直後に雨が降り始めた。

★花すすきまだ露深し穂にいでては眺めじと思ふ秋のさかりを (新古今集・秋上、式子内親王)

(大意:すすきの穂に涙を連想せる露が付いている。この秋、悲しみとともに花すすきの穂をながめたくはないのだが、あの人はもう来ないのだろうか)

 


台風の影響がそろそろ‥

2019年09月08日 11時11分54秒 | 天気と自然災害

 横浜では「大雨・強風・雷・波浪注意報」が出ている。すでに横浜市の南部では雨の区域が東から西に早い速度で流れている。雨の範囲は狭い。しかし、私の住んでいる地域は腫れて陽射しが強く、風もない。真夏の陽射しである。横浜市の南部と北部でずいぶん差がある。
 これから台風が来るというのが我が団地から見上げる空からは想像できない。雲も白く輝いている。
 レインアイよこはまを見ると東京湾の対岸の木更津市あたりに狭いが、時間雨量80ミリの雨の区域が横浜・川崎方面に向かって進んでいる。
 この分では間もなくこちらにも強い雨か降りそうである。