本日読み終わった本は「ゴヤⅡ マドリード・砂漠と緑」(堀田善衛、集英社文庫)。
解説は鹿島茂氏である。まずは解説には「堀田善衛の文学的テーマは、‥「人と社会」あるいは「人と時代」、これである。」「フランコ政権下だったスペインをはじめて訪れたとき、堀田善衛の頭にあったのはスペイン市民戦争‥であったに違いない。‥堀田善衛にとって同時代的な出来事であり、義勇兵として参加したマルローやオーウェルは身近な存在‥。だが、‥彼はスペイン市民戦争だけを描いたのでは無意味であると感じた。苛烈な内戦をもたらした根源的な理由はスペインそのものの歴史と社会にある‥」と記している。
これはこれで肯定するが、私はそれだけではないと思う。堀田善衛はゴヤの生きたヨーロッパの同時代の戦争と革命の時代史を書きながら、「革命」「知識人論」を語り、近代日本の社会の成り立ちや問題点、分析を同時に行っている。それが堀田善衛の大きな魅力なのである。
欧州の西の「辺境」と規定するスペイン、それは東の「辺境」のロシアとの対比の中で記述されている。これもまた堀田善衛ならではの視点である。そしてアジアの「辺境」日本にも焦点が当たる。
さていつものとおり、覚書風に抜き書きをしておく。
「作家にしても画家にしても、人は一応のぼりつめたその頂点でとまってしまうことが多い‥。後は、成功作の自己模倣がはじまる。‥創造ではなく自己増殖である。いや、自己模倣、自己増殖からいい方である。‥始末に負えぬのは、成り上がりのぼりつめたその頂点での名声をバネにして他の分野への転業をしていく連中である。‥もっともやさしい分野は、政治の世界である。」(友人マルティン・サバテール)
「あらゆる芸術家には、自己を隠したい、表現したもの、されたものが、それは自分ではない、それは客観的表現である、として、作品の陰にかくれたい、それで自己であるという秘密を守りたいという、自己顕示欲の逆の欲望もがある。芸術とはある意味でこの自己撞着のかたまりである」(もう一人の侯爵夫人)
「近代とは、つまりはわれわれ自身なのである。万人が、この世界全体も、神も、大魔王も、政治や経済さえがわれに関係なしとしては生きられぬ時代の開始である。‥18世紀末は、近代の執行猶予期間のごときものである。」(スペイン・光と影)
「病苦と聾であることによって孤独のなかに閉じ込められたとき、それまでの彼のまわりに立てまわされていた壁が、いや、より正確には彼自身が立てまわした壁が、音もなく、崩れ去っていったのである。それはゴヤにとって、全世界を喪失したかのような感を与えるものであったろう。‥、宮廷画家の世界-それこそは彼が少年時代からひたすらに首を長くして希求し、翹望してきた唯一の全世界であった。彼はこの“全世界”を喪って、はじめて“現実”を得たのである。」(一七九二~九三年・悪夢)
「彼は決して“病的”な画家などではない。彼の新たに発見する世界は、彼の“病的”な想像や新しい不安、ないしは病気そのものから発生してきたものではない。‥彼は幻視の画家でも、幻覚の画家でもない。怪物どもに取り囲まれて、精神の蔭の部分にうずくまっているのでも決してない‥。」(一七九二~九三年・悪夢)
「この人(ゴヤ)はすでに神と王と祖国のために、などというスローガンにちょろりとやられたりはしなくなっているのである。」(マヌエル・ゴドイ -青年宰相)
「彼(ゴヤ)自身のコメントは「理性に見放された想像力は、ありうべくもない妖怪を生ぜしめる。理性と合体せしめられたならば、想像力はあらゆる芸術の母となり、その驚異の源泉となる」という、あたかも“近代”の出発を宣言するかのようなものであった。」(「バンと闘牛」・知識人たち)
「宗教画‥から完全に離脱したこの風俗画は、西欧における「革命」というものが、キリスト教が本来的にもっていた社会理想
を人民の側に奪取することを意味していたとすれば、それは「革命」的、と呼ぶことも出来るかもしれない。」(バドゥアのアントニオ聖人)