先ほど帰宅してちょっと一服。二日続けての宴会はやはりとても疲れるものである。横浜駅から歩いて帰っているあいだ中、太ももやお尻の筋肉がそれほどではないものの痛かった。
本日、高齢者集会の会場から外に出るとまだ夏の熱気が残っていたが、空には秋の雲、鰯雲、鱗雲、鯖雲といわれる巻積雲・高積雲が拡がっていた。
★熊笹に濁流の跡いわし雲 矢島渚男
★いわし雲空港百の硝子照り 福永耕二
★窓枠の空をはみ出しいわし雲 菅原 涼
先ほど帰宅してちょっと一服。二日続けての宴会はやはりとても疲れるものである。横浜駅から歩いて帰っているあいだ中、太ももやお尻の筋肉がそれほどではないものの痛かった。
本日、高齢者集会の会場から外に出るとまだ夏の熱気が残っていたが、空には秋の雲、鰯雲、鱗雲、鯖雲といわれる巻積雲・高積雲が拡がっていた。
★熊笹に濁流の跡いわし雲 矢島渚男
★いわし雲空港百の硝子照り 福永耕二
★窓枠の空をはみ出しいわし雲 菅原 涼
昨日で「没後50年 坂本繁二郎展」は終了してしまった。
これまでの展覧会でも見てきたが、私は最晩年の月と馬を描いた作品にはとても惹かれている。
その中でも「月」(1964)は月の輪郭も彩色ももっとも鮮明である。月の光が実に妖しく吸い込まれそうになる。ただし月以外の携帯はあまりに不明確で何を描いているのかは私には不明である。月のすぐ下の赤紫は円形の山、他は森の樹々というふうに理解している。画面に向かって右側の白は雲と思われる。月の中の青は雲なのだろうか。気になるが、あまり詮索しないようにしている。
少し暈を被った月が気に入っている。配色のバランスにも惹かれる。この作品も見ていて飽きることがない。この月が能面であっても少しも違和感がない。
「馬屋と月」のシリーズでは1967年のこの作品が気に入っている。前年の1966年の同名の作品では月と外の景色は「窓」枠にはめ込まれている。こちらは画面の下まで開いた「扉」の枠である。
こちらの方が外が広々としており、窮屈な感じが薄らいでいる。月も大きく描かれ、その描写も細かい。何よりも馬の輪郭がはっきりしてい。
1968年の「月光」では馬も月もさらに淡く描かれており、ともにその存在がかすんでいく。
馬と月の対話が生まれてくる。馬は多分坂本繁二郎の分身である。月は昔からのとおり仏の喩えであると言い切っていいのであろうか。
そこまでの心境は今の私にはまだわからない、というのが実感である。
「幽光」(1969)は絶筆といわれている。どのようにこの作品と相対したらいいのだろうか。1970年の展覧会から今まで、気になって、惹かれている作品なのだが、うまく表現できない。しかし忘れられない作品である。