Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

京急線の事故現場

2019年09月28日 21時45分21秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 久しぶりに旧東海道を川崎宿方面に歩いた。旧東海道といっても洲崎神社から北は現在の国道15号線の中に敷地がある。先日大型トラックと京急線の衝突事故の起きた神奈川新町駅の踏切で、亡くなった運転手に手向けた小さな花束とお供えの水の前で合掌してから子安駅まで行って、再び同じ道を引き返しきた。
 先日の事故の現場は小さな花束とペットボトルの水がなければ事故のあった場所とはわからない。もう忘れ去られようとしていることに何とも言えぬ感慨が湧いた。
 労働災害であることに違いはない。なぜあの道に入らざるを得なかったのか、そして最善の対応はどうあるべきだったのか、という教育・指導は行われていたのか、この議論がどこからも聞こえてこない。
 ことほど左様にあっという間に人の死は忘れ去られていく。場所の記憶とともに頭の中の引き出しにしまっておきたい。

 しかし68年も生きているとこの人の死の記憶ももう抽斗から溢れるほどになり、やはり記憶は難しいのかもしれない。人の死にまつわる教訓は、それを生かすということと、供養することとは別にものなのだろうか。

 ウォーキングから戻ってから一息ついて妻と外食。といってもいわゆる街中華。生ビール一杯ずつと、横浜ならではというサンマーメンと餃子と麻婆豆腐各ひとつずつ。60代後半の夫婦二人ではこれで余るほどである。麻婆豆腐は注文しなくてもよかったかもしれない。


ウォーキングに出かける

2019年09月28日 15時35分18秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 取りあえず自宅にいてこなさなくてはいけないことは終了。日がかげって曇ってきた。ウォーキングにはいい天気のようだ。明日からはまた雨も降るとのこと。ウォーキングをするのであれば今のうち、と思われる。

 夜は妻とどこかで外食、といっても豪華な食事は無理。何処で何を食べるか、考えながらのウォーキングである。妻は用事があるといって一足先に自転車で出かけた。何の用件かは聞き忘れた。

 本日はどこらあたりをウォーキングするか、玄関を出てから気分次第。旧東海道を北上するか、南下するか、開港の道か、鎌倉道か、その他の旧街道にするか。あるいは現代の道にするか、住宅街の道をのんびり歩くか‥。


彼岸花 再

2019年09月28日 13時57分40秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 午前中に工事業者が書類を持ってくるとのことで、朝7時に起きようと思っていたが、結局8時に起床。年寄りは早起き、という格言はわが家族には当てはまらない。



 ケヤキの大木の下、日陰に毎年咲く彼岸花が今年も咲いた。一昨日まで蕾であったが昨日花をひらいた。

★照準の定まらぬ対峙彼岸花       藤井誠三
★砂に陽のしみ入る音ぞ曼珠沙華     佐藤鬼房

 第1句、ちょっと怖くてよくわからないところもある。「戦」を連想させるのが、「照準」と「対峙」という言葉。戦前の言葉遣いは分からないが、戦後は企業では「販売戦略」だの「絨毯爆撃」「成長の突破口」だのと軍隊用語を平然と、不用意に使っている。それがデモや選挙でも政治家の発言でも使われる。何とも物騒な資本主義・「民主主義」が戦後75年になろうという今も続いている。
 仕事なのか、政治的場面のか、何かを目的に他者と相対しているのだろう。その糸口が見つからないということなのだろう。こういう強いものいいに対して作者は大きな違和感を持っていると思われる。それが「定まらぬ」という語に籠められているのではないか。単に目的がはっきりしない、というだけでなく会議の在り様・人との対し方に腰が引けている。私には好ましい人の性(さが)であると思う。生身の人間のつぶやき・ぼやきを感じた。
 さらに赤い不吉な予感と不即不離の彼岸花を配した。狙いは相対する人である。相対する人を倒すのか、販売対象者としての狙いなのか、何とも殺伐とした社会への違和感満載の句として理解した。

 第2句、まずは「閑さや岩にしみいる蝉の声」(芭蕉)を思い浮かべる。鬼房の句は、無音の音。蝉の声ではなく太陽の光が砂にしみ入るときの音が聞こえるのだという。その光は墓場に眠る死者にとどくことはないはずである。それゆえに光が届くようになるために曼殊沙華が咲くのである。これには論理ははなく、感覚でしか理解できない。
 同時に私は「いつのまにか、/今迄流れてもゐなかった川床に、水は/さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました‥‥‥」(中原中也、一つのメルヘン)を思い浮かべた。陽や陽を受けた音が実際に聞こえ始めた、という詩である。蝶にみとれていた間は無音であったけれど蝶が見えなくなると音が復活する。
 場面は違うのを承知でこの詩を思いついた。赤い曼殊沙華から目を逸らした瞬間、無音であるはずの「砂に陽のしみ入る」音が聞こえたのだ。動く蝶と動かない曼殊沙華、だが目を奪うことに違いはない。それが目から逸れた瞬間、世界が変わる。
 この変化を捉えることが、詩の成立なのだろう。