Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

枯葉舞う

2019年09月24日 23時27分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 台風15号と17号の影響で大量の落葉がまだまだ道路上に舞っている。17号で小枝ごと地面に落ちた葉が乾燥し、枝から離れて舞うのである。風がないのにときどきカサカサと音を立てるのである。歩いていると後ろから人が迫って私を追い抜こうとしているのではないか、と慌てることがある。
 広い通りならば気にならないが、狭い歩道などでは身構えてしまう。特に夜など怖くなって思わず振り向くと、誰もいない。枯葉が舞っているだけ、という歌のような世界に引きづり込まされる。

 本日も昼間出かけたとき、明るいにもかかわらず幾度か振り向いた。先ほど夜のウォーキングに出かけたときも、すぐ真後ろでカサカサと音がして慌てた。しかし人影も、猫も、犬もいなかった。
 怯えるのには理由がある。私はかなり早く歩く。昼間でも夜でも追い抜かれることはまずない。ときどきジョギングや若いウォーキングの人に追い抜かれることはあるが、そのときは足音で分かる。そのために夜には真後ろで急に音がすると驚くのである。身の危険を感じてしまう。微かなカサカサという音におびえながら歩いているようなものである。

 例年ならば枯葉が道路上を舞うのはまだまだ先である。11月になってからだと思う。それほど今回の二つの台風の影響は大きい。

 さて、明日は午前中はシュレッダーの配送待ち、御子は市民病院で消化器内科の診察と検査、ならびに白内障の手術の説明。午後はずっと病院に居ることになりそう。


彼岸花・曼殊沙華

2019年09月24日 21時54分33秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 曼殊沙華は別名がたくさんあるが、死人花・幽霊花・捨子花などもある。それぞれにいわれはあるのだが、あまりに寂しい名である。

★むらがりていよいよ寂しひがんばな   日野草城
★曼殊沙華落暉も蘂をひろげたり     中村草田男
★曼珠沙華どれも腹出し秩父の子     金子兜太

 第3句は、金子兜太のまだ若い頃の作である。死や幽霊やらという否定的な意味合いの曼殊沙華のイメージをひっくり返して、たくましい子どものエネルギーと結びつけた。腹を出してたくましく遊びまわる子どもたちは、生の根源的ともいえる破壊力を秘めている。
 しかしこの根源的な力が社会の中でもまれて丸くなる、という言い方をされるが、私はそのようには思わなかった。金子兜太はその反骨の生を生き抜いた。私もそのように生きたいとおもう。

 若い力は危うく、頼りなく、そしてひょっとしたら手におえないような間違いも多い。しかし頭から否定はしてはならない、ということも必要である。先行世代がよりよき批判者・対話者とならなければならない。
 果たして私たちは今、このような立場に自分が立っているだろうか。自分とのよりよい対話も必要である。私は自分とそして友人との対話を通して、よりよき先行世代の論者を見つけ、自分なりにそれを取り込んだ。

 同時に、格闘する相手は心の中の対話を通じて、こちらの力に合わせて偉大にも矮小にも変化する、ということも真である。

 


秋彼岸、秋分の日そして彼岸花

2019年09月24日 10時10分47秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 昨日は秋分であった。二十四節気のひとつ。この日一日を指す場合と、10月7日までの15日間を示す場合とがある。秋の彼岸の中日にあたる。昼と夜の時間がほぼ同じになる。
 「秋分」という季語よりも「秋彼岸」の方がより使われる。二十四節気云々よりも墓参と結びついてこの日を指すためであろうか。

★嶺聳(そばだ)ちて秋分の闇に入る   飯田龍太
★秋彼岸ものより影のおおきかり     藤枝大成

 第1句、「聳(そばだ)つ」は「山などがかどばって高く立つ。そびえる」ことをいう。峻厳な山であろう。秋分の闇に、月の明かりに、あるいは星や天の川が微かに照らす峰々は黒々とその存在を際立たせる。夜空とはいえ秋の澄んだ空はその黒々とした山巓をより際立たせている。山岳地帯の領域に入れば、山の冷気がそれをさらに鮮明に見せる。
 森林限界を超えた山の景色が「秋分」を境に厳しくなっていく。樹林帯の山の秋は紅葉の色合いによって「山粧(よそお)う」と形容するが、ここでは大気と光による感覚である。

 第2句、秋になり陽射しが低くなり、ものの影が長くなる。それはものの大きさよりも大きく見せる。これだけでは何の変哲もない形容であるが、何かの喩えのように受け取った。しかしそれはここでは何も記されていない。たぶん居丈高な人を前にした感慨なのだろう、周囲の人間関係のこじれなのだろうと想像するだけである。

 さてここから先は私の妄想。  この数年、日本では「忖度」がまかり通る世界。人が自分を大きく見せようとし、周囲はそれをより大きいかのように振る舞うことで、格下の自分をより大きく見せようとする。かつての身分制社会を繰り返しているかのような戦後70数年の日本である。なぜか社会批判めいた受け取り方をしてしまった。作者にとっては不本意だろうが。

 秋の彼岸に合わせて、私の住む団地でも彼岸花の芽が伸びてきた。