明日は組合の会館へ行く予定。若干の宿題を持ち帰ることになっている。連休明け、事務局も忙しいかもしれない。仕事の邪魔をしないで必要なものを受け取ったら退散予定。
帰りには横浜美術館に寄りたいと考えている。連休が終わっているので、少しは空いていると思う。
他に「ラウル・デュフィ展-絵画とテキスタイル・デザイン」(パナソニック汐留美術館)、「コート―ルド美術館展-魅惑の印象派」(東京都美術館)の券をもっている。是非とも訪れたい。
しかしこの目のことを考えると、割引券を持っている展覧会以外はもったいない上に、目が疲れて途中でリタイヤしてしまわないか、危惧している。残念である。
外はかなり冷えてきた。団地の中では石蕗の花が咲き始めた。
★つわぶきはだんまりの花嫌ひな花 三橋鷹女
★人住むを大地といへり石蕗の花 神尾久美子
★母の目の裡にわが居り石蕗の花 石田波郷
石蕗(つわぶき)の花は、葉が暗緑色で、花の黄色も黄菊のような発散する鮮やかさにかけるくすんだ黄色である。よく民家のそれも旅館などの北側の玄関わきに植えられている。そのために陰気な印象を与えるらしい。
だからといって第1句のようにこんなにはっきりと嫌いだと宣言しなくてもいいのではないか、とオロオロしてしまう。このような断言がこの作者の思い切りのいい句調を支えている。私などは石蕗の黄色は静かな趣きに見えて、好みである。一方で黄菊も好きである。
第2句、そのような陰気な花といわれるが、人は悲しみや、無念の思いをため込んで心の中で発酵させて生きてゆく。そして時間の累積に耐え、世代をつなぐ。明るく発散させる生だけでは、大地に根の生えた人の歴史は繋がってはいかない。石蕗の花は、人にもてはやされる明るい菊などのように盛り上がる黄色ではなく、くすんで湿った大地に根差したような花である。それが人の住む世の実相なのであろう、と私は思っている。
第3句、ここで母の目に、明るさや希望はない。いわゆる「慈愛」の目とも違うように感じる。石蕗の花が添えられるということは、波郷という人格に何らかの不安や危惧を持った眼ではないか。あるいは作者自身が後年の病魔の中で、母親の目にそのような自分を発見したのではないか。これはあくまでも私の勝手読みである。
昨晩の雨はなかったような明るい陽射しで目が覚めた。血圧が少々高め。追加で降圧剤を1錠。午後から妻と横浜駅まで買い物の予定。
2日間ほど読書を長時間続けたら目が疲れた。細かい活字を長時間追うのは気をつけた方が良いようだ。パソコンのディスプレイの長時間の凝視も無理になっている。
昨晩、ベッドに入る前に親が飲まなくなった入眠剤を1/2錠服用。これまで月に一度くらい使用していた薬よりも、寝付きは良くなかったが、寝覚めまでが長い。9時過ぎまで熟睡。どちらが体に合っているのかはわからない。
これまでの薬は1/4錠を飲んでいた。まだ14錠もあるので56回分。今度のものも45錠ほどあるので90回。月に1回使うとすると12年以上使える。それまで生きていたらという前提は、とてもではないが自信はない。今のところ月に2度もお世話になることはほとんどない。
本日は妻との買い物以外予定はない。
先ほど「雨の予報はハズレか?」という記事をアップしたら、22時半過ぎから10ミリほどの雨が降り始めた。昨日は雨が降るという予報はかろうじてハズレはしなかった。
天気予報の当たり、ハズレは論じたくないし、外れたからといって文句は言わないことにしている。そしてこの秋もおしまいの弱い雨の音を聞きながらの風呂は格別である。
今晩から私の部屋にガスストーブを据えた。4畳半用の小さなストーブで、本箱とプリンターと机とパソコン台とタンス、三面鏡が並ぶ狭い室内には十分すぎる大きさである。10分もつけていると暖かさを通り越して暑くなる。
日付が変わって4日になった。今年の立冬は11月7日。ほぼ立冬にストーブを点けることになった。ストーブを据えると冬の気分となる。
★銀の匙おけばチリンと冬隣 長谷川葭
★行秋や膝から暮れる屋台酒 窪田 穣
第1句、例年より気温は高めのようだが、秋から冬へ移ろうとしている。例年なら空気も乾燥し、高い金属音がよく響く時節である。銀の小さなスプーンが何かに触れて微かな心地よい金属音を響かせる。それが夏とは違って気持ちよく響く。作者の音に対する繊細な感覚が好ましく伝わる。そのような音を聞きもらさないところが好ましい。冬を迎えようとする緊張感も伝わる。
秋から冬へ、静かな音楽をじっくりと聴きたくなる。
第2句、行く秋、というと昔から寂しさを含んだ語感である。同時に冬隣りという季語よりはまだ暖かみが残っている。それも多分夕方の太陽に照らされた明るい暖かさのなかに、寒さが潜んでいる。橙色をした深い秋である。寒色だけの世界ではない。まだ紅葉が残っている感じがする。銀杏の落葉が似合う。だが日が暮れてしまえば、冬とも追われる冷気が足もとを過ぎてゆく。
そんな季節を屋台酒を持ってくることで取り出していると思った。果たしてこの作者は屋台の前に座っているのだろうか。それとも屋台で飲んでいる人を観察しているのだろうか。この屋台、私のイメージでは街路樹や公園の樹木の下にある屋台である。紅葉した葉が降っているはずである。ありふれた感傷といわれようがそれでよい。