Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「疲れる」という言葉

2019年11月15日 23時24分54秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 私が「疲れる」という言葉を発したり、書いたりすると厭世観がたっぷりと沁み込んだ言葉になるそうである。むかし友人に居酒屋で指摘された。
 「人生に疲れた」、「生きているのが面倒になった」、そんな意味合いに取れる表情が言葉に貼りついている、というのだ。藤圭子の『圭子の夢は夜ひらく』を思い出す、といわれた時は「俺の言葉はそんなにもロマンチックな言葉なのか」と一応嬉しく聞いていた。
 しかし「そんなにシンドイ気分」で使っているのではないのになぁ、と思っている。

 ふと言葉として発せられる「疲れる」という言葉、一般的には体力的にしんどかったり、筋肉疲労であったりする場合の方が多い。精神と肉体の疲労は相互に浸潤するのであるが、私の精神的疲労に使う方が多い、というのは確かに当たっている。私の場合は肉体的な疲労がすぐに精神的な疲労に繋がる傾向にあるのかもしれない。
 私は「疲れる」という言葉より「疲労」という言葉をまず使う。「疲労」が昂じて「疲れる」という言葉になる。私が「疲れる」のは「精神的にもアップアップ」のときなのである。それが私の「疲れる」という言葉である。

 自分の使う言葉が、他人とは少しニュアンスが違うということは誰にでもある。酔って居酒屋で大声を出して言い合いをしている大人を見ると、お互いの言葉の意味合いが微妙に違っている。その些細な違いでのすれ違いで喧嘩や言い合いになってしまう。
 人と言い合いになりそうになった時、自分の言葉の意味合いと、相手の言っていることのずれを冷静に客観視出来れば、日常の喧嘩の90%以上は回避できる。自分の言葉は「こんなふうに相手には伝わったいたのか」と思えるようになれば、自分から相手に反論する必要などなくなってしまう場合がほとんどである。それは発した方が迂闊であったかもしれないし、相手の理解力の問題であったりする。それはお互いさまである。自分が理解できなかった、自分の発した言葉が説明不足だったと思えば済んでしまうことばかりである。

 自分と相手の言葉の違いに敏感になることは、実はとても楽しいことなのである。新しい発見なのである。

 


寝るにかぎる

2019年11月15日 19時54分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 夕食まで2時間ほど寝た。眠りが浅かったせいか、すっきりとせず食卓に着いた。メインのおかずは、里芋・牛肉・長ネギの煮物。これは私の好物で、特に里芋と一緒に煮たものはネギのとろみに牛肉の旨味がマッチしてつい箸がのびる。食欲がなかったが、この好物のおかげでご飯も茶碗に三分の一ほど食べることができた。  食後は少し濃いめの烏龍茶を飲んでだいぶすっきりした。

 本日はこれより寝間着に着替えて、本格的に睡眠の態勢。右目を酷使しているためか、顔の右側がなんとなく疲労感がある。


疲労感たっぷり

2019年11月15日 17時11分03秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 先ほど帰宅。お昼はなくとなくラーメンというものを久しぶりに食べたくなった。油が多かったり味が濃くくどいものは嫌なので、鶏がらスープの塩ラーメンの店をたまたま見つけて入った。
 ラーメン、最近は1000円を超える店がたくさんある。手をかけたものはその程度の値段はやむを得ないのだろうが、財布にはちょいと厳しい。本日の店の塩ラーメンは800円と割と安く、そして美味しかった。味がくどくなく、全部胃に納めることも出来た。だが普段外食の場合昼は500円未満の私には豪華版。
 ラーメン、この前に食べたのはいつ頃だったか、まったく記憶にない。お腹いっぱいになり、関内駅から桜木町駅まで歩いて腹ごなし。しかしいつもと違い、足袋れてしまった。

 どういうわけか、体はあまり動かしていないのに、本日は疲労感がある。桜木町駅から横浜駅までは電車に乗った。いつもなら40分近くかけて横浜駅から歩いて帰るが、本日はバスに乗った。
 バスの中でもすぐに寝てしまった。

 これより夕食時まで就寝。