私が「疲れる」という言葉を発したり、書いたりすると厭世観がたっぷりと沁み込んだ言葉になるそうである。むかし友人に居酒屋で指摘された。
「人生に疲れた」、「生きているのが面倒になった」、そんな意味合いに取れる表情が言葉に貼りついている、というのだ。藤圭子の『圭子の夢は夜ひらく』を思い出す、といわれた時は「俺の言葉はそんなにもロマンチックな言葉なのか」と一応嬉しく聞いていた。
しかし「そんなにシンドイ気分」で使っているのではないのになぁ、と思っている。
ふと言葉として発せられる「疲れる」という言葉、一般的には体力的にしんどかったり、筋肉疲労であったりする場合の方が多い。精神と肉体の疲労は相互に浸潤するのであるが、私の精神的疲労に使う方が多い、というのは確かに当たっている。私の場合は肉体的な疲労がすぐに精神的な疲労に繋がる傾向にあるのかもしれない。
私は「疲れる」という言葉より「疲労」という言葉をまず使う。「疲労」が昂じて「疲れる」という言葉になる。私が「疲れる」のは「精神的にもアップアップ」のときなのである。それが私の「疲れる」という言葉である。
自分の使う言葉が、他人とは少しニュアンスが違うということは誰にでもある。酔って居酒屋で大声を出して言い合いをしている大人を見ると、お互いの言葉の意味合いが微妙に違っている。その些細な違いでのすれ違いで喧嘩や言い合いになってしまう。
人と言い合いになりそうになった時、自分の言葉の意味合いと、相手の言っていることのずれを冷静に客観視出来れば、日常の喧嘩の90%以上は回避できる。自分の言葉は「こんなふうに相手には伝わったいたのか」と思えるようになれば、自分から相手に反論する必要などなくなってしまう場合がほとんどである。それは発した方が迂闊であったかもしれないし、相手の理解力の問題であったりする。それはお互いさまである。自分が理解できなかった、自分の発した言葉が説明不足だったと思えば済んでしまうことばかりである。
自分と相手の言葉の違いに敏感になることは、実はとても楽しいことなのである。新しい発見なのである。