Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は本日よりは低い気温

2020年03月11日 23時32分58秒 | 天気と自然災害

 暖かく、日向ぼっこをしていると頭から芽が出そうであった。横浜では20.2℃を記録したらしい。
 21時過ぎに突然のように風が強くなった。団地の中では東西に号棟が並んでいるので、普段は風向についてはすぐには分からない。しかし先ほどはベランダ側からは風の音は聞こえず、北側の窓カラスがガタガタなった。急いで台所の窓ガラスを開けてみた。とても冷たい風だったので、元は北風だと理解した。向かい側の号棟の列の切れ間から風が飛び込んで来て、こちらの号棟にぶつかって東に向きを変えて東側に吹き抜けているようだ。
 気象庁のテータを見ると21時過ぎに瞬間最大風速16メートルの北風を記録している。

 そんな中を妻に呆れられながら、30分ほどのウォーキングをしてきた。東西にのびる丘陵地の尾根道を歩いた。一応メインとおりから一本住宅地側の道を歩いたら、さほど風は吹いていなかった。
 昨日に続いて月が大変美しかった。雲は昨晩よりも少し多めで、色がずっと白かった。近くの小さな公園で空を見上げようとしたが、底は風が強く当たる所のため、寒くて断念した。

 明日は晴れるが、本日よりも4℃低い16℃の予報。


いくら何でもこれはひどい

2020年03月11日 20時46分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日が3月11日ということで取り上げるのではない。あまりにひどい暴言であり、そしてその釈明もまたひどいものである。

 森法務大臣:「例えば東日本大震災の時、検察官は福島県いわき市から国民が市民が避難していないなかで最初に逃げたわけです。その時に身柄拘束をしている十数人の方を理由なく釈放して逃げたわけです」
  野党側が11日、発言内容は事実かと問いただしたところ、森大臣は「個人の見解で不適切だった」と釈明して撤回しました。野党側は「事実に基づかず、『検察官が最初に逃げた』と発言して検察官をおとしめたのは法務大臣の辞任に値する」と反発しています。

 国会での質問とは関係ない答弁がこのような発言であった。その内容も事実ではなかった。しかも法務大臣である。指摘をされた検察官はもっと怒らなければいけないであろう。
 しかも「個人の見解で不適切」というのは釈明にも、説明にも、撤回理由にもならない。個人の見解ということは、このような事実があったと現在も確信している、ということである。その認識を変えない限り、謝罪にはならない。
 あえて言わせてもらえば、例えば身柄拘束している人間がいるとして、その人を拘束したままにして「被疑者」である彼らが原発事故の放射能を浴びたり、津波にのまれて亡くなったら、それこそ人道にもとる問題であり、非難されることである。

 どうして日本の国会というところは、このようなことがまかり通るのであろうか。しかも本日は3月11日である。その日にこのような発言をすること自体にこの「法務大臣」は何の思いもないのであろうか。
 この7年間、日本の政治の劣化はあまりにひどすぎる。「法務大臣」失格である。このような人間を任命した安倍首相の責任も極めて重い。 


3.11に思うこと

2020年03月11日 19時57分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 今年は2011年の東日本大震災の発生した日から9回目の3月11日。私は9年前のこの日は定年まであと13ヶ月という日であった。その日のことを思い出しながら、いつもその日とそれ以降の日に、自分が何をし、何を感じ、何を思い、何が出来なかったか、それを繰り返し繰り返し思い出してきた。この9年間に思い続けたことは、労働組合の後輩に少しで伝えたいと思っているが、それがうまく形にならない。そのもどかしさを胸にしてきた9門間でもある。
 当時私は、労働組合の支部長の任を降り、定年前の準備の年であった。通常通りのいつもの仕事を従事していた。
 当日は金曜日で、午後から現場調査を一人で行なっていた。発生当時の私の振舞いについては幾度もこのブログに記載しているので、今年は省略。
 それでも支部長の任をおりてからまだ4ヶ月しかたっていなかったので、横浜でも震度5がいくつも続いたこともあり、翌日・翌々日は携帯鈍話で連絡の取れる組合員に安否の確認をし、週明けの月曜日には自分の職場に出勤するとともに、19か所の職場に点在する組合員の安否を個別に確認した。さいわい支部の組合員には被害はなく、職場の建物も異常がないことが確認できた。
 労働組合が組合員の安否確認について、率先して行うことの意義や、職場の安全点検のアドバイスを組合員に独自の連絡網で提起すること、などは今後に生かしていってほしいと切に願っている。それが組合の存在意義を職場に報せ、組合員に頼りにされる組合であることを再確認してもらえる方法だと思う。また組合員でない職員に組合の存在を知ってもらう方法でもある。
 そして被災地支援の在り方について、もっと当時の組合員と議論を重ねたかったと反省している。役員として肩の荷が下りてホッとした自分の意識が先に立って、そこまで気がまわらなかったと反省している。
 ボランティアにかかわる労働組合のあり方、行政側が行う行政支援に参加する組合員の処遇にかかわる交渉などなど、新しい役員は大変だったと思う。もう少し手伝いが出来たのではないか、と今でも悔やまれる。

 今年はそんなことをゆうべから考えていた。もっと具体的にいろいろ思いついたが、それはあまりに個別的なことなので、ここの場にはそぐわないので省く。
 この9年間に思い続けてきたこと、何らかの文章にして残したいものである。

 そして現在の政権とその後継政権が続く限り、災害対応はますます後退して行くことは間違いない。現に最近の水害対応を見ても、政府と行政の混乱と政治の劣化をもっとも蒙っているのが災害対策であり、「人災」の割合は高くなる一方である。行政の市民サービスの最先端を担ってきた自治体の労働組合が大規模災害時に果たすべき役割はますます大切なってきている。災害ボランティアがなければ、この災害列島の復興はあり得ない。そのノウハウに学びながら、労働組合の果たす役割は増大していると思う。



ユキヤナギ

2020年03月11日 11時19分38秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は昨日とはうって変わって快晴、風もなく、湿気は無くなった。そしてとても暖かい。20℃を超える可能性もあるとのことである。

 ティッシュペーパーがなくなりかけているので、朝早くに歩いて近くのドラッグストアに10時20分頃についた。朝10時開店である。すでにティッシュペーパーやキッチンペーパーなどを抱えて高齢者が店から出てきていた。普段あまり人の乗り降りのないバス停にも買い物を済ませたと思われる高齢者が20人ほどがすでに並んでいた。
 店内ではトイレットペーパーの棚はすでに空。さいわいにティッシュペーパーはそれなりに残っていた。3つのレジがフル回転であった。キッチンペーパーまでが一人一個という制限になっていたのは気がつかなかった。
 このような状況では、体を動かすのがつらい高齢者ばかりか、若い共働きの夫婦にとっては紙類を買いそろえるのはなかなか難しいのかな、と思える。近くに元気な親がいたりすればまだしも、そうでない夫婦、まして子どもがいる世帯、親の介護もしている若い世代には厳しい状況が続く。

   

 ドラッグストアの行き帰り、すでに散り始めたコブシや、今が盛りのユキヤナギを見ながら歩いた。いつも午後か夜に通り過ぎる界隈の午前中の見え方はまた違っている。そして風のない日のユキヤナギもいいものである。明るい陽射しのもと、輝いている。