東京ステーションギャラリーも3月31日まで休館になり、4月5日までが会期の「奇蹟の芸術都市バルセロナ展」は果たして東京で見るのは難しい状況になってきた。
そこでせめて東京ステーションギャラリーのホームページから「奇蹟の芸術都市バルセロナ展」の概要説明を読んで取りあえず予備知識を蓄えておこうと思う。
図録は3300円である。展示が中止になっても後日購入できると期待して楽しみにしておこうと思う。
残念ながらチラシは二部も持っていたが、紛失してしまった。どこかに保存しておけばよかった、と後悔している。
なお出品リストは【⇒http://www.ejrcf.or.jp/gallery/pdf/202002_list_barcelona.pdf】にある。
ホームページには次のように記されている。
★奇蹟の芸術都市バルセロナ
豊かな経済力と独自の言語文化を背景に特異な芸術を形成してきた国際都市バルセロナ。本展は、都市の近代化が進んだ1850年代から、万博開催を経て、スペイン内戦に至るまでの約80年間にカタルーニャに花開いた芸術を紹介します。ガウディやムンタネーら街の近代化を推進した建築家、ピカソ、ミロ、ダリ、サンティアゴ・ルシニョル、ラモン・カザスなど、多才な芸術家による約130点を展示します。
スペイン、カタルーニャ自治州の州都バルセロナは、食文化、スポーツ、世界遺産サグラダ・ファミリアなど豊かな観光資源で人々を魅了しつづける国際都市です。北はフランスに接し、南に地中海に望む温暖な気候、経済的発展、そして独自の言語文化を背景に、バルセロナは特異な芸術文化を形成してきました。特に、都市の近代化が進んだ1850年代から、万博を経て1930年代後半のスペイン内戦に至るまでの約80年間は、カタルーニャ芸術が最も成熟した時期でもありました。アントニ・ガウディをはじめ、リュイス・ドゥメナク・イ・ムンタネー、ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルクなど現在のバルセロナの景観を形作った建築家たち、ここで若き日々を過ごしたピカソ、同じくここを足掛かりに世界的に活躍したミロやダリ、そして、カフェ「四匹の猫」を文化発信の場としたラモン・カザスやサンティアゴ・ルシニョルなど、多くの芸術家がこの時期、この街で多彩な活動を繰り広げました。本展は、絵画、ドローイング、彫刻、家具、宝飾品など約130点で、世紀末カタルーニャに満ちた熱気をあますことなく伝えます。
Ⅰ. 都市の拡張とバルセロナ万博
18世紀初頭、カタルーニャはスペイン継承戦争により自治権を失ったものの、植民地との貿易や産業革命に伴い徐々に活気を取り戻しました。その一方、都市部の人口増加が衛生環境の悪化をまねき、バルセロナは1859年にイルダフォンス・サルダーによる都市拡張プランを採用。旧壁を取り払い、碁盤の目のように整備された街は近代化が進み、1888年には万国博覧会も開催されました。また、カタルーニャ独自の言語と文化の復興運動「ラナシェンサ」が興り、文化的アイデンティティが確立していきました。
Ⅱ. コスモポリスの光と影
19世紀後半、富を得たブルジョワジーは競い合って邸宅を建てました。現在、バルセロナの中心部、グラシア通りに建つ、「カザ・リェオー・ムレラ」(リュイス・ドゥメナク・イ・ムンタネー設計)、「カザ・アマッリェー」(ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルク設計)、「カザ・バッリョー」(アントニ・ガウディ設計)はいずれもこの頃の名建築です。これらの室内を飾ったのは豪華な工芸品や甘美な絵画でした。一方、労働者階級の間には生活格差への不満から、しばしば暴動が起きるなど、社会には光と影が混在していました。
Ⅲ. パリへの憧憬とムダルニズマ
19世紀末、多くの芸術家はパリへの憧れを抱き、ラモン・カザスとサンティアゴ・ルシニョルもモンマルトルで2年間の共同生活を送ります。そこで新たな芸術表現の感触を得たルシニョルは、帰国後、バルセロナ近郊の小村シッジャスで「ムダルニズマ祭」を主宰。美術・音楽・演劇のジャンルを超える総合芸術を目指しました。一方、キリスト教的道徳観に基づく芸術団体「サン・リュック美術協会」が結成されるなど、ムダルニズマとは異なる芸術の流れも生まれていました。
[ムダルニズマModernisme:カタルーニャ語で「近代主義」の意。19世紀末から20世紀初頭にかけて、バルセロナを中心に興った芸術様式。アール・ヌーヴォーや中世の様式からも影響を受け、建築、文学、美術などへ広く波及しました。]
Ⅳ. 「四匹の猫」
パリのカフェ「シャ・ノワール(黒猫)」からヒントを得て、ラモン・カザスとサンティアゴ・ルシニョルは仲間四人で、1897年、バルセロナのムンシオー通りにカフェ「四匹の猫(アルス・クアトラ・ガッツ)」を開きました。芸術家や知識人の溜まり場となった店では、展覧会、音楽会、人形劇、朗読会が盛んに行われ、雑誌も発刊するなど、カタルーニャ文化の発信地となります。若き日のピカソは「四匹の猫」に通って常連の姿を数多く描き、初めての個展をここで開きました。
Ⅴ. ノウサンティズマ―地中海へのまなざし
1898年の米西戦争敗北を機に、スペイン中央政府との対立が激しくなったカタルーニャでは、彼らの民族性を重視する保守的思想が強くなりました。また、芸術においては、かつて繁栄した地中海文明への回帰を特徴とする「ノウサンティズマ(1900年代主義)」と呼ばれる動きが生まれます。1929年に開かれたバルセロナ国際博覧会は、カタルーニャ芸術の主流がムダルニズマからノウサンティズマへと移行したことを印象づける場となりました。
Ⅵ. 前衛美術の勃興、そして内戦へ
ピカソに続くように、ミロやダリはバルセロナのダルマウ画廊の後押しによって1920年代以降パリに進出。やがて、シュルレアリスムの中心人物となりました。また、ル・コルビュジエに影響を受けたバルセロナの建築家がグループを結成するなど、建築界でも前衛的動向がありました。そして、1936年7月、スペイン内戦勃発。フランコ率いる反乱軍と、カタルーニャを含む人民戦線軍が交戦するなか、反乱軍はバスク地方ゲルニカを攻撃。ピカソをはじめ多くの芸術家が立ち上がりました。