Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

横浜では午後からみぞれ

2020年03月14日 22時50分23秒 | 天気と自然災害

 本日はとても寒く、横浜でも霙が降った。17時半過ぎに最低気温1.8℃を記録。
 終日家にいるのも嫌だったので、傘をさして地下鉄を利用して横浜駅まで。1000円の理髪店に行った。1000円といっても1200円。土曜日なのでシニア割引はなしというのは迂闊であった。

 横浜駅の地下はかなりの人出。いくら自粛ムードでも必要な買い物もあるであろうし、若いカップルにとっては「ホワイトデー」ということで、大切な日であったのかもしれない。
 地下街の人混みは避けたかったが、百円ショップや書店、家電量販店を一応回ってからバスにて帰宅。透湿性素材のコートを着て出たら、地下街は熱くて汗がにじんできた。バスを降りると涼しく感じた。

 神奈川大学で休校になっていた講座、結局中止となり、受講料を変換するとの連絡がきた。振込口座などを記すための連絡票の提出や職員の手間を考えると大変な出費を大学は強いられたことになる。申し訳ないとは思いつつ、ありがたく返金してもらう手続きをした。
 明日は退職者会の幹事会・学習会。朝早めに出ることになった。こんな時期なので取りやめという選択もあったが、4月に総会も予定していることでもあり、開催することになった。十分な注意が必要。お酒は控えるようだ。
 


「奇跡の芸術都市バルセロナ展」概要

2020年03月14日 20時08分50秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 東京ステーションギャラリーも3月31日まで休館になり、4月5日までが会期の「奇蹟の芸術都市バルセロナ展」は果たして東京で見るのは難しい状況になってきた。

 そこでせめて東京ステーションギャラリーのホームページから「奇蹟の芸術都市バルセロナ展」の概要説明を読んで取りあえず予備知識を蓄えておこうと思う。
 図録は3300円である。展示が中止になっても後日購入できると期待して楽しみにしておこうと思う。
 残念ながらチラシは二部も持っていたが、紛失してしまった。どこかに保存しておけばよかった、と後悔している。
 なお出品リストは【⇒http://www.ejrcf.or.jp/gallery/pdf/202002_list_barcelona.pdf】にある。

 ホームページには次のように記されている。

★奇蹟の芸術都市バルセロナ
豊かな経済力と独自の言語文化を背景に特異な芸術を形成してきた国際都市バルセロナ。本展は、都市の近代化が進んだ1850年代から、万博開催を経て、スペイン内戦に至るまでの約80年間にカタルーニャに花開いた芸術を紹介します。ガウディやムンタネーら街の近代化を推進した建築家、ピカソ、ミロ、ダリ、サンティアゴ・ルシニョル、ラモン・カザスなど、多才な芸術家による約130点を展示します。

スペイン、カタルーニャ自治州の州都バルセロナは、食文化、スポーツ、世界遺産サグラダ・ファミリアなど豊かな観光資源で人々を魅了しつづける国際都市です。北はフランスに接し、南に地中海に望む温暖な気候、経済的発展、そして独自の言語文化を背景に、バルセロナは特異な芸術文化を形成してきました。特に、都市の近代化が進んだ1850年代から、万博を経て1930年代後半のスペイン内戦に至るまでの約80年間は、カタルーニャ芸術が最も成熟した時期でもありました。アントニ・ガウディをはじめ、リュイス・ドゥメナク・イ・ムンタネー、ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルクなど現在のバルセロナの景観を形作った建築家たち、ここで若き日々を過ごしたピカソ、同じくここを足掛かりに世界的に活躍したミロやダリ、そして、カフェ「四匹の猫」を文化発信の場としたラモン・カザスやサンティアゴ・ルシニョルなど、多くの芸術家がこの時期、この街で多彩な活動を繰り広げました。本展は、絵画、ドローイング、彫刻、家具、宝飾品など約130点で、世紀末カタルーニャに満ちた熱気をあますことなく伝えます。

Ⅰ. 都市の拡張とバルセロナ万博
18世紀初頭、カタルーニャはスペイン継承戦争により自治権を失ったものの、植民地との貿易や産業革命に伴い徐々に活気を取り戻しました。その一方、都市部の人口増加が衛生環境の悪化をまねき、バルセロナは1859年にイルダフォンス・サルダーによる都市拡張プランを採用。旧壁を取り払い、碁盤の目のように整備された街は近代化が進み、1888年には万国博覧会も開催されました。また、カタルーニャ独自の言語と文化の復興運動「ラナシェンサ」が興り、文化的アイデンティティが確立していきました。

Ⅱ. コスモポリスの光と影
19世紀後半、富を得たブルジョワジーは競い合って邸宅を建てました。現在、バルセロナの中心部、グラシア通りに建つ、「カザ・リェオー・ムレラ」(リュイス・ドゥメナク・イ・ムンタネー設計)、「カザ・アマッリェー」(ジュゼップ・プッチ・イ・カダファルク設計)、「カザ・バッリョー」(アントニ・ガウディ設計)はいずれもこの頃の名建築です。これらの室内を飾ったのは豪華な工芸品や甘美な絵画でした。一方、労働者階級の間には生活格差への不満から、しばしば暴動が起きるなど、社会には光と影が混在していました。

Ⅲ. パリへの憧憬とムダルニズマ
19世紀末、多くの芸術家はパリへの憧れを抱き、ラモン・カザスとサンティアゴ・ルシニョルもモンマルトルで2年間の共同生活を送ります。そこで新たな芸術表現の感触を得たルシニョルは、帰国後、バルセロナ近郊の小村シッジャスで「ムダルニズマ祭」を主宰。美術・音楽・演劇のジャンルを超える総合芸術を目指しました。一方、キリスト教的道徳観に基づく芸術団体「サン・リュック美術協会」が結成されるなど、ムダルニズマとは異なる芸術の流れも生まれていました。
[ムダルニズマModernisme:カタルーニャ語で「近代主義」の意。19世紀末から20世紀初頭にかけて、バルセロナを中心に興った芸術様式。アール・ヌーヴォーや中世の様式からも影響を受け、建築、文学、美術などへ広く波及しました。]

Ⅳ. 「四匹の猫」
パリのカフェ「シャ・ノワール(黒猫)」からヒントを得て、ラモン・カザスとサンティアゴ・ルシニョルは仲間四人で、1897年、バルセロナのムンシオー通りにカフェ「四匹の猫(アルス・クアトラ・ガッツ)」を開きました。芸術家や知識人の溜まり場となった店では、展覧会、音楽会、人形劇、朗読会が盛んに行われ、雑誌も発刊するなど、カタルーニャ文化の発信地となります。若き日のピカソは「四匹の猫」に通って常連の姿を数多く描き、初めての個展をここで開きました。

Ⅴ. ノウサンティズマ―地中海へのまなざし
1898年の米西戦争敗北を機に、スペイン中央政府との対立が激しくなったカタルーニャでは、彼らの民族性を重視する保守的思想が強くなりました。また、芸術においては、かつて繁栄した地中海文明への回帰を特徴とする「ノウサンティズマ(1900年代主義)」と呼ばれる動きが生まれます。1929年に開かれたバルセロナ国際博覧会は、カタルーニャ芸術の主流がムダルニズマからノウサンティズマへと移行したことを印象づける場となりました。

Ⅵ. 前衛美術の勃興、そして内戦へ
ピカソに続くように、ミロやダリはバルセロナのダルマウ画廊の後押しによって1920年代以降パリに進出。やがて、シュルレアリスムの中心人物となりました。また、ル・コルビュジエに影響を受けたバルセロナの建築家がグループを結成するなど、建築界でも前衛的動向がありました。そして、1936年7月、スペイン内戦勃発。フランコ率いる反乱軍と、カタルーニャを含む人民戦線軍が交戦するなか、反乱軍はバスク地方ゲルニカを攻撃。ピカソをはじめ多くの芸術家が立ち上がりました。


「東京」オリンピックの行方

2020年03月14日 11時37分44秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 さまざまな災害というのは時間との勝負でもある。初期対応から収束まで、全体を見わたす立場の人間は、常に人の意見を聞く姿勢とそのための体制に目配りしながらすばやい判断を下していく必要がある。さまざまな人の判断や意見に即応できるように慣れていること必要である。災害時、緊急時ほど、関わっている人の能力が表に現れる。人の評価はそこで定まる。
 さらに「今」しなくてはいけないことに集中するの能力も問われる。災害時というのは総合力が常に問われるのである。
 例えば第一線で土嚢積みなどの作業をしていても、周囲が危険でないか、隣の人の体調や作業の安全なやり方をしているか、など気を配る必要がある。

 今回のオリンピックの開催を巡る政府やオリンピック関係の人の意見を聞いていると危機管理の対応に私は首を傾げたくなる。
 まず開催するか否かの決定権はIОCにあり、国のJОCにはないという前提に立ってみる。
昨日IОCの会長は
・開催するという前提で準備を進める
・開催すか否かはWHОの判断に従う
と表明した。
 もしもIОCが開催についてすべての権限を握っているのだとしたら、日本では
・基本的には開催する方向で準備はする
・しかしコロナウィルスの拡大は世界的規模に広がっており、さまざまな状況があり得るので、それに対応できるような態勢も検討する
というのが、本来の在り方であるはずだ。
 ところが政府も東京都も組織委員会も「延期も中止も考えられない。開催するだけ」という表明というか「決意」ばかりが報道される。
 しかし世界的に見ても、コロナウィルスの感染拡大の状況を見れば、開催が危機的な状況にあることは事実である。現実を見極めることも必要である。あと半年で収束しできる保証などどこにもない。

 これでは「決意」だけで危険な中に飛び込むようなもの。IОCが中止や延期を決断したとしたら、その時の日本の傷口は拡がるばかりである。選手のモチベーション、広範囲の経済的な負の波及効果、今後の対応等々見通しも対策も後手に回るだけである。
 戦争になぞられえるのは好みではないが、あえて言わせてもらう。今の日本の状況は、それこそインパール作戦の指令部のようなものである。傷つくのは第一線に投じられた人間。オリンピックで言えば選手でありコーチであり、さまざまな施設運営に携わった人間、経済的波及効果に期待した人などなど。彼らにどのようなフォローが必要か、対策は今からでも早急に練らねばならないはずである。
 物事は後退戦・撤退するときがいちばん困難なのである。しんがりがきちんとできる指揮者がいなければ、小競り合いでも壊滅的な損害を受けるのは、世の常である。指揮官は常に後退戦・撤退のときを考えて行動し、それを決断できて一人前である。

 政府も東京都も組織委員会も、「あらゆる結論・措置に対応できるように体制を考えたい」と何故言えないのだろうか。「一点突破」は「全面展開」よりも「全面崩壊」のリスクのほうが高いのである。第一線の人間のほうが指示をする人やトップの人間よりもより大きな打撃を受け、痛手を蒙る。傷つくのは常により下位のものである。

 現在、無観客、半年延期、一年延期、一部縮小、一部延期、中止などがささやかれている。組織委員会はすべての責任をIОCに任せてしまうのではなく、問題点を整理のうえ、今の状況に合わせて、IОCに問題提起、可能性の提起を逆に持ち込む時期でもあろう。私がオリンピックを推進する立場ならそうする。

 私ははじめから安倍総理が原発事故について「アンダーコントロール」と嘘をいい、「復興五輪」などという上辺のきれいごとで招致したオリンピックについては、否定的である。
 オリンピックに夢を掛けているアスリートには以前から「オリンピックに参加すること」とそれが「『東京』でなければならない」理由は分けて考えるべきだ、と言いたかったし、現に「東京」オリンピックにこだわっている私の周囲のかたには常に言ってきた。
 オリンピック招致はあくまでも、どこまでも経済的理由・政治的理由がついて回る。アスリート団体が「招致」に参加することは、アスリート団体がその時々の「政治」の論理に組み込まれてしまうことにもなる。

 今の政権はこれまでも、国会の絶対多数という状況に胡坐をかいて、気象災害時にまともな対応が取れていなかった。何しろ酒宴・宴会でそれを中止することもできず、批判されるのが常であった。今回のコロナウィルスでも右往左往、自分で言ったことすら守れずに金集めのパーティーは実行する取り巻きばかり。対策会議にもわずかな時間しか参加しない上に、陣頭指揮を執る気もない。
 これらのことを考えれば、オリンピックに開催について、中止になっても疵口が最小限になる方策についてまともなことが出来るとは到底思えない。
 

 


終日雨、部屋籠りか?

2020年03月14日 10時19分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 朝から予報どおり雨。団地の芝刈りのお手伝いをしようと思っていたら、先週も今週も雨にたたられてしまった。10ミリから20ミリの雨の区域が横浜市域を覆っている。

 16日まで臨時休館の東京ステーションギャラリーの「バルセロナ展」を、来週に見に行きたいと思っていた。しかし休館日が31日まで延長になってしまった。
 昨晩、手足が冷えてしまい、どうしても寝付けなかった。布団に入って1時間半程した2時に我慢できなくなって、1か月ぶりに睡眠剤を利用した。親が入院中に処方されたものが残っており、1錠をかみ砕いて3分の1程を服用した。9時近くまでぐっすりと寝ることが出来た。そして気分よく目覚めた。

 本日は終日部屋に籠っていることになりそうである。理髪店に行きたいのだが、傘をさすのが億劫な気分。