今年は桜の咲くのが早い。
★咲くまへのさくらの音をさぐりをり 加藤楸邨
★さくらさくらわが不知火はひかり凪 石牟礼道子
★田にあれば桜の蕊がみな見ゆる 永田耕衣
第1句、桜がいつ開花するか、というのは今では、天気予報士の大切な仕事のひとつのようになっている。だが、桜の木を巡りながら「いつ咲くか」と実際に見て回るのもまた楽しいものである。実際に樹木に抱き着いて水をあげる音を聴くという行為も癒しのひとつとして行われる。水の流れを実際に聴かずとも、一本一本の木を丁寧に観察して回るのも「音をさぐる」行為と解してもいいのではないか。
第2句、水俣病の汚染は不知火海にひろがり、人間を破壊したばかりでなく、人のつながりもずたずたにした。しかし陸の上では桜は見事に咲き、不知火の空は明るく風も心地よい。海面も凪いで光っている。工場排水の害とは裏腹なかつての豊かな海、そして現在の海の状況、過去と現在の自然と人の時間の落差がことのほか強調される。ここでは、桜も光りも凪も、かつての豊かな自然とそれに依拠した人の営みの豊かさの象徴であり、同時に再生の縁でもある。
石牟礼道子の句では「祈るべき天とおもえど天の病む」は忘れられない句である。
第3句、「花を見て人を見ず」とよく言われるが、本当だろうか。桜の木の下で宴会をしている人を見ると、多分桜の花よりは、お酒と会話を楽しんでいる。そのことは否定しない。春が来たのを実感として、暖かい陽射しと春の風、そして桜の雰囲気を体で受け止めて、自身の活力にしようとしているのである。桜は口実になっている。それはそれで悪くない。都会では桜花よりは「人」が主体なのだ。
だが、一方で日頃から自然そのものや、人工物とは言え畑や田んぼなど自然に囲まれて働く人にとっては、桜はその一部である。花全体を見ることもあるが、しみじみと桜花を見上げると蘂も見える。桜のほの赤い色は蘂の色なのだ。
「田にあれば」と「蘂がみな見ゆる」のつながりがフラッとである。何の起伏も断絶もなく、それでいて意表をついている。満開の桜に蘂を発見した視点の根拠が「田にあれば」というのが、都会では発見できない、と裏では主張している。多分時間の流れも都会とは違うのだ。