本日は「犬の記憶」から「城」と「海辺の日記」の2編を読み終えた。体長の回復と読書量あるいは読書時間は関係があると断言していいようだ。
「僕の記憶への旅は、ありうべき全体像の風化を前提としたところから始まっているような気がする。確かに過去と現在の照合などというヌエのような作業は、カフカの小説の主人公Kのようにいらだつばかりだ。目の前に映っているように見えて行きつくことが出来ない。」(城)
「人間とは、所詮無数の風景の組みあわせのなかをひたすら駆けぬけていく存在にすぎないのだろう。はかないといってしまえばそれまでにしても、あのときのあのころの、あの風景はいったい何処へいってしまったのかと考えるとき、それは僕にとって感傷などいうのではなくむしろいきどおりに似た感覚である。人間はみな風景をつぎつぎに喪失していく。それは時間への焦燥といいかえてもよい。時間とは、無限につづいていくものてはなく、むしろそれぞれに迫りくるものだと思う。失われていく風景への追想は、同時に木たるべき死への風景を予感することでのような気もする。」(海辺の日記)
「短い言葉の向こうに風景が見え、そのさらに向こうに過ぎた時間がある。‥無数の記憶の風景も、その時点で写し止めることは不可能であったが、それらはいったん僕の記憶のそこに沈み込み、僕の意識を通り抜けることによって、あらかじめ潜在していた日付は、新たなる日付との邂逅のなかでふたたび蘇生するのではないだろうか。‥記憶とはそんなものなのかもしれない。」(海辺の日記)