本日は気温は昨日よりも高く32.6℃まで上昇したものの、湿度は39%まで下がり、それほど暑くは感じなかった。湿度の違いでこんなに皮膚の感覚が違うことに驚いた。
横浜駅近くのオフィス街の喫茶店に久しぶりに入った。
「犬の記憶 終章」の「ヨーロッパ」と「新宿」の2編を読んで本日の読書は終了。
「新宿」は森山大道の、というか60年代という時代の象徴のような場所。そして中平拓馬との交友、寺山修司との交流。森山大道のホームグランド、出発の地のような場所の叙述にとても惹かれる。
「明け方近くの新宿の街は、昼間や宵の口の繁華な風景とは全く異なった貌を見せ、奇妙に青みを帯びて透明感のただよう静寂につつまれていて、なにがなし早朝の海を眺めているような間隔に似たところがあった。それはほんのわずかな時間でしかないのだが、叙事と抒情とが、酔いの醒めはじめた意識の中で微妙に交叉する一刻であり、大都会がいちばん美しい風景を垣間見せるひとときで、ぼくたち(中平と森山のこと)は自然と無口になる。中平がふと、やっぱり寺山修司ってすごいよね、とつぶやく、ほくも、うんいいよな、と返す。」(新宿)
「新宿という街は、不思議な麻薬性を帯びていて、ぬきさしならずぼくを虜にしてしまうようなところがある。‥愉しかった思い出よりも、苦しかった思い出の方が圧倒的に多かったはずだが、にもかかわらす新宿の街の無数の記憶は、結局ぼくというカメラマンの生の、熱かった時間の大半の記憶と決定的に重なってしまっているのだ。」(新宿)
「寺山修司のいう“ネオンの荒野”とは、あくまでも人間の直截な欲望と体液が混然と交叉する、つまりこちら側〈新宿〉を指すのであって、高層ビルが幻影のごとく立ち並ぶ、つまりあちら側〈新宿〉を、ぼくは決して新宿などとは思わない。あれは全く異界の場所で、あれこそうそ寒い風の吹く、単なる“荒野”にすぎないのだ。」(新宿)
私は青苔というのは秋の季語とばかり思いこんでいた。しかし青苔の持つ季感は特に定まっておらず、他の季語を配している例が多いことに気がついた。
第1句、2句は秋の季感を、第3句は初冬の季感をまとわせている。
第4句は、「苔茂る」を夏の季語として扱っている。歳時記でもそのように扱っている歳時記がある。しかし私には現在の都会の夏の身を突き刺すようなの陽射しのもとではなく、どこか柔らかい陽射しを匂わせている。きっと木陰の多くあるところが似合う季語である。こんな「苔茂る」の私の持つ季感を打ち破った句に出会ってみたい、作ってみたいという気持ちがある一方、そんなことはとてももったいない気もする。
私の住む団地では擁壁の目地の苔は梅雨時に花も咲き青々として、盛夏には色が褪せてしまう。しかし今年は、梅雨時が短く青々とした苔の風情はほとんどみられなかった。台風前後の雨で苔の青が急に浮き上がるように見えてきた。苔もまた異常気象に翻弄されているようだ。
★思惟仏秋の青苔身にあふれ 加藤秋邨
★青苔に日の射してゐる神の留守 飯田龍太
★踏み石に苔青々と初冬なる 細見綾子
★苔茂るオランダ塀の上の瀬戸 石原八束