Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「図書7月号」その1

2023年07月07日 22時35分39秒 | 読書



 久しぶりに岩波書店の広報誌「図書7月号」に目を通した。本日目を通したのは、次の5編。

・[表紙]ウィンストン・チャーチル           杉本博司

・ムジナモをめぐる奇しき因縁             渡辺政隆

・「野の果て」の世界                 田中優子
 久しぶりにいい文章を味わったと思った。
(志村ふくみさんの「野の果て」は)数ページ読むと、その場を離れ、心を落ち着かせて呼吸を整え、再びその世界に入る、という読み方になった。圧倒される、言葉が食い込んでくる、追いつめられる――いろいろ表現を探してみたが、どれも少しずつ違う。人が自然界の中で自分の命をつなげる必要に迫られたとき、こんなふうになるのではないか?
志村ふくみの言葉は、染織を通して、生命と自然の向こう側をさし示す言葉である。さし示すだけでなく、その入り口に導く。それはかつて宗教指導者たちが行った営為であるが、今の世ではそういう人々に出会う機会に恵まれない。志村ふくみの言葉との出会いは、その稀な機会に相当する。

・「沖縄レポート」(下)                柳 広司

・音楽が繋がっている                 笠松泰洋
音楽は言語とは違う。しかし言語のようなものである。生理的、心理的状況とその変化を伝える言語のようなもの、と言えばいいだろうか。‥人間とはそれらの感覚や感情を音にして表してきた生き物なのだ。言葉は学習して初めて使える道具である。
日本らしさ、とはいったい何なのだろう。‥奈良時代にアジア各国の文化使節が日本にやってきて、‥儒教や仏教の音楽として保護され。‥しかし現在も使われている楽器で生まれも育ちも日本、という楽器は、雅楽の古琴(こごん)くらいしか見当たらない。
言語の種類や宗教の違いは、生まれてから学習されるものだが、音楽はもっと人間の本質に根ざしている。音楽と楽器は地域、民族、時代を超えて生き、融合し、新しく育成されていく。

 


95%

2023年07月07日 21時15分15秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨日よりも気温が高くなった。13時で32.5℃と昨日に続いて本日も今年の最高気温を更新。平年よりも4℃以上も高いとのことである。

 本日リフォーム工事の代金の払い込みをすますことが出来た。これでホッとした。早速振込みを確認したとの電話も施工業者からあり、領収書が郵送されるとのこと。
 少しずつ新しい便所・洗面所・寝室・書斎のつくりにも慣れてきた。一番の違いはリビングルームにあったデスク、などを寝室や書斎に移動したため、とても広く感じること。気分的にもゆったりできる。このまま調度品を増やさずに広く使いたいものである。
 書斎=パソコンルームは少し詰め込んでいるが、特に狭くは感じない。押入れを有効に活用したことと、本と無駄な文具類の大半と、旧パソコンルームのデスクを処分したこと、そしてまだリビングルームの本棚から移動していな本が少しあり、本棚の空きスペースがあることも狭く感じない要因である。

 文具類の整理とリビングルームからの本の移動が終れば片付けが終わる。今のところ95%までこぎつけたと思われる。


監視カメラばかりの時代 補足

2023年07月07日 19時54分26秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 昨日は寝る間際に「監視カメラばかりの時代」を掲載した。書き忘れたエピソードをひとつ。

 私の団地でも監視カメラを設置した。管理組合の議論もあったが、その過程では「必要悪」論が優勢となった。要は「監視し合うのは本意ではないが痴漢行為や泥棒などに対する抑止として有効であるから、やむを得ない」というものであった。
 要するに監視し合うという負の側面もあるが、犯罪抑止のための「必要悪」である、という論理である。私も「犯罪防止」のためという建前に抵抗できる論理というものが思い浮かばずにそのまま異論はいわなかった。
 運用上は警察の要請がある場合に限り、役員が立ち会うという条件で設置が決まった。しかし私の知る限り警察からの要請の案件はないようだ。たまたま団地の入り口での交通事故で、団地居住の当事者から閲覧の申し出があったらしいが、「警察の要請ではない」ということで閲覧はしなかった、と人づてに聞いたことがある。
 しかし案件がないとはいえ、私が気になったのは、「必要悪」という言葉が、「必要」に力点を措いて人を納得させてしまうことであった。私のイメージでは本来は「悪」ないし「デメリット」が大きな比重の言葉だと思っていた。
 だが「必要」に力点を措いた「必要悪」の前に多くの人は沈黙せざるを得なくなった。「抑止論」である。それこそ「核の抑止論」「防衛のための軍備保持論」「抑止力としての敵基地攻撃能力論」いづれも「必要悪」が「錦の御旗」になってしまう。根拠の薄い抑止論が「必要悪」として覆い被さってくる。
 本当に必要なのか、監視カメラがあれば犯罪は少なくすることができるのか、そもそも団地内で泥棒や痴漢の実体はどのくらいあったのか、高齢者の割合が高くなる団地でカメラだけで犯罪者を追い払うことができるのか、他に具体的で効果的な抑止方法はないのか、痴漢や住宅内への泥棒の侵入などよりも振り込め詐欺の抑止や駐車場の車上荒らしなどのほうが優先すべきなのではないか、などなどの具体的な議論・検討はなされない。警察の一般的な議論の紹介だけで結論が出てしまう。
 団地内部の住民同士の関係・絆の希薄化にどう対応するのか、という防犯のもっとも基本的な議論が抜け落ちてしまう。
 そこまで言及することが、団地の中の会議で果たして実を結ぶ議論となるのか、ということの不安も大きかった。そんな意識を持ちながら私は監視カメラ設置の議論をよそ事のように聞いていた。自分ができる具体的な場面は限られており、私自身のできることはしているつもりであるものの、議論が進まないのは、無いものねだりなのだろうかとも考えた。
 こういうためらいが「日本的な議論回避の温床なのか」ということも頭を過ぎったが、あえて口には出さなかった。
 果たして私のこの選択、ためらいがどういう結果となって帰ってくるのか、私にも誰にもわからない。