先日アブラゼミが2匹階段室に迷い込み、翌日死んでいた。以降は階段室には飛び込んで来てはいない。しかし他の階段室にはずいぶんと飛び込んでいる。本日は雨模様に関わらず、蝉の声は激しい。
最近は家にいる時間が長いためだろうか、蝉の声がうるさく感じるときが多々ある。昔は職場の周りでも盛んに蝉の声は聞こえていたが、仕事に紛れてうるさく感じたことはあまりなかったと思う。
あるいは仕事に紛れるということとは無関係に、歳をとると蝉の声がうるさく感じるような聴覚の変化があるのだろうか。そんなことがふと気になってしまう。
★夜の蝉人の世どこかくひちがふ 成瀬櫻桃子
★油蝉死せり夕日へ両手つき 岡本 眸
★蝉しぐれ防空壕は濡れてゐた 吉田汀史
第1句、どこか食い違うのは、夜の蝉の声が原因ではない。しかし時々蝉の激しい合唱が自然の秩序を越えて、どこか狂気のように聞こえてしまうことがあるのではないか。しかもそれが夜の蝉の合唱となるとなおさらである。社会に在って人や社会との疎外感が膨れ上がり、それが昂じて病の領域に突き進んでしまうこともある。そんな自分の危うい現状と蝉の合唱が重なってしまう瞬間を意識したことは無いだろうか。私にはとても切実に思えた句である。
第2句、先日の我が家の家の前の階段室に迷い込んで死んでしまった蝉、ひょっとしたらこのように夕日に向かって生涯を終えたかったのかもしれない。油蝉と表記されるだけに暑い夏の日に絞り出すように鳴く声が、夕日にこだましている。
第3句、私は防空壕で身を潜めて空襲をやり過ごした体験はない。しかし私は小学生の頃、防空壕の跡をずいぶん見た。いづれも入り口が木の柵でふさがれていたが、柵は腐り、草に覆われ湿気ていて、覗くと草や木の腐った臭いがした。こんなところでどうやって長時間潜むことが出来たのか、幼いながら不思議に思ったものである。多分作者は生涯この湿気の多い濡れた防空壕の体験を五感をもって覚えているだろうと思う。作者は蝉しぐれの夏の慰霊の時に思い出すのであろうか。体に染みついた感覚を忘れ去ることはできないはずだ。