Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「戦後」という年号

2023年08月15日 21時13分39秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 以前にもこのブログに掲載したことのあることを再度記載してみたい。当時の文書ではなく、本日思い出しながら再度記載してみる。

 私は昭和26年生まれである。西暦では1951年。まだまだ戦争の影をひきづっていた頃である。物心ついた時には年号というのは当然意識することは無かったが、「昭和26年生まれ」、「戦後6年目の誕生」というのは区別なく使用していた。どちらかというと、前者は畏まった言いかた、後者は隣近所の人々との会話の中で使っていた言いかたのような気がする。
 「昭和〇〇年」は公式、「戦後△△年」というのは日常使用、こんな区別でもあったのだろうか。また函館から東京の親族のところに1959年小学校2年生の夏休みに遊びに行って、前年の年末に出来た東京タワーに連れて行ってもらったことがある。そのときに「戦後13年の日本のシンボル」などという言葉を案内の女性が発したのを覚えていて、夏休みの宿題の日誌に書いたと思う。
 この「戦後」という年号は、1970年、昭和45年、戦後25年までは常に使われていたと思う。「三年号併存期間」と私は勝手に決めている。人々の間では頭の中で「戦後〇〇年」に換算して使用していたように思う。それほどあの1945年・昭和20年が、それまでの死と隣り合わせの破壊と恐怖の意識と、それ以降の混乱と回復の時期の境界として強く意識されていたはずだ。
 中・高校時代も併用が当たり前だった。大学入学は1970年・昭和45年であったが、住民票の手続きに市役所に行くと「戦後25年の仙台」というような横断幕があったと記憶している。学籍番号も「45S-〇〇〇」だった記憶がある。Sは理学部。
 年号表記については学生運動も無自覚で「45前期自治会」などという表記をビラや立て看に使用していた。卒業までの5年の間に「戦後」という文言は少なくなったが、意識が希薄になったとは思えない。少なくとも「戦後文学」は私どもの一つの思想の拠り所でもあった。
 「もはや戦後ではない」というのは、1956年・昭和31年の「経済白書」のキャッチフレーズだが、これは朝鮮特需が終わり、復興景気も期待できない、という悲観的な意味で使われていたという。戦後の新しい経済の出発を待ち望むという気分を作りたかったのかもしれない。それが高度成長を予想し、独り歩きして反対の意味になったという。
 1970年代後半になってようやく「戦後」という意識が薄れかけ、それに政治家が乗じた。中でも中曽根康弘元総理大臣の「戦後政治の総決算」という言葉で「戦後」という意識は葬られたように見える。国会議員の意識からも意図的に消えたようだ。「戦後」という価値体系が余ほどお気に召さなかったのだろう。
 しかし時間の尺度というものは、政治家や官僚がコントロールしようとしても、人々の意識は変えられない。それを「使ってはいけない」と強制することはできない。「戦後〇年」という意識は私はとても大切な時間の尺度であったし、それを少なくとも30年以上も使い続けた人々の意識は大切だと思う。
 1945年・昭和20年という起点以前と起点以降は断絶がある、という意識は戦後に培われた価値というものが、戦前よりも優れていたことのほうが多いということの証しでもある。「戦後」という言葉を葬り去りたい人々がいる限り、私はこだわってみたい、と中曽根元総理大臣が影響力を持っていた時期、こだわって「戦後〇〇年」という言い方をしたことがある。それこそ「古い人間とお思いでしょうが・・・」と開き直ってみたかった。

 「戦後78年」、今一度「戦後」にこだわってみたい。


鳥取県に「大雨特別警報」

2023年08月15日 19時19分14秒 | 天気と自然災害

 気象庁は16時40分、鳥取県東部に「大雨特別警報」を発表した。被害が発生しないで欲しいものである。静岡県でも竜巻が発生したとのニュースも流れている。

 気象庁の発表は以下のとおり。

鳥取県の市町村に大雨特別警報を発表しました。これまでに経験したことのないような大雨となっています。
特に土砂災害警戒区域や浸水想定区域などでは、何らかの災害がすでに発生している可能性が極めて高く、警戒レベル5に相当します。命の危険が迫っているため直ちに身の安全を確保しなければならない状況です。
※指定された避難場所への避難がかえって危険な場合には、少しでも崖や沢から離れた建物や、少しでも浸水しにくい高い場所に移動するなど、身の安全を確保する必要があります。
また、普段災害が起きないと思われているような場所でも最大級の警戒が必要です。
今後、他の市町村にも大雨特別警報を発表する可能性があります。特別警報が発表されてから避難するのでは手遅れとなります。自分の命、大切な人の命を守るため、特別警報の発表を待つことなく、地元市町村からすでに発令されている避難情報に直ちに従い身の安全を確保してください。
地元気象台等が発表する地域に応じた詳細な情報を確認するとともに、今いる場所の災害発生の危険度を気象庁HP等の「キキクル(危険度分布)」で確認してください。
 


8月15日

2023年08月15日 14時21分39秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 横浜市域では、深夜1時ころには強い雨の区域が通過し、大雨警報・洪水注意報も出たが、2時過ぎには止んでくれた。現在は太陽が顔を出している。ただし大雨・雷・強風・波浪注意報が出ている。
 近畿・中国は風・雨ともに強くなっているようだ。鳥取県では竜巻の発生というニュースも流れている。

 本日は8月15日、終戦記念日という言葉が世の中に溢れているが、私は昔からどうしても敗戦記念の日と言ってしまう。いつごろからだったか記憶にないくらい小さい時からである。私が小学校の低学年の頃は「敗戦の日」「無条件降伏を受け入れた日」と人々が口にしていた記憶がある。ただし当時のマスコミや政府がどういう表現をしていたかは記憶にない。気がついたら私の周囲でもいつの間にか「終戦記念日」になっていた。

 その後の私の理解では、8月15日は「玉音放送」により「ポツダム宣言受諾及び日本の降伏が国民に公表された日」である。ちなみに9月2日は日本政府がポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書に調印した日である。さらに1952年4月28日が国際法上、連合国各国(当時のソビエト連邦などを除く)と日本の戦争状態が終結した日となる。

 当時の国内政治がいかに混迷していたか、8月15日の評価にも反映している。そしてさらに複雑な国際情勢を反映して、わかりにくい戦後処理のスタートでもあった。
 同時に一番大切なことは、1945年8月15日の「玉音放送」までの旧大日本帝国と、戦後日本国憲法により定まった日本国は、政治的には「断絶」しているという理解が、政権与党だけでなく、ほとんどの政治家がこのことに無自覚、疑問にすら思わない。あるいは知ろうともしない。これが今の政治の混迷の元にもなっている、と私は理解している。