横浜も14時前に351℃と猛暑日になった。ちょうどそのころ買い物を終え、横浜駅に向かってい歩いていた頃である。暑いことは暑かったが、その時間に歩いたのは20分程度、2000歩であったので何とか歩きとおした。凍らせたペットボトルの融けた水が美味しかった。
横浜駅は帰省していた人々が戻ってきたのであろう。とても混雑していた。地下街も各店舗もが溢れていた。
まずは、家電量販店のパソコン売り場をぶらぶら歩きながら汗がひくのを待って、百円ショップ、書店、スーパーなどをまわってから喫茶店へ。喫茶店も空いている席を探すのに苦労して諦めかけた時にたまたま空いて座らせてもらった。
30分ほどで「晩年様式集」(大江健三郎)を読み終えた。
いろいろと考えることもあったが、感想は後日、頭の中で何かがまとまれば記載してみたい。
ただ最後の「私は生きなおすことはできない。しかし私らは生きなおすことができる。」という一文、私には人の将来に希望をかけすぎ、という思いが先に立ってしまう。この文章、敗戦の「玉音放送」を聞いた学校の校長が「私らは生きなおすことが出来ない。」といったことの裏返し、戦前の指導的な人々の受けた衝撃に対して、「庶民」のしたたかさの代弁として引用される。
しかし同時に新憲法第13条の「すべての国民は、個人として尊重される」という一文とともに、「もう残された日々は短いのですが、次の世代が生き延びうる世界を残す、そのことを倫理的根拠してやってゆくつもりです。それを自覚しなおすために、「原発ゼロ」へのデモに加わります。」という文章に続くものとして記載されている。
確かにリベラル派としての振舞いに敬意は表しているが、心どこかで私はこの手の文章があまり好きではない。このような理念や倫理観で政治が語られても、それもまた上滑りした論理でしかない、といつも心の奥底でつぶやいている。こんなことをちらっと思いつつ、本を閉じることにした。
感想にならない感想をとりあえずしたためておきたい。