Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日の月

2023年08月31日 23時23分22秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 スーパームーンと云われる本日の月は全天を覆う薄雲に遮られて、鮮明には見えない。ベールに隠れている。月というのは雲のない空で見るのは少々寂しいが、それでも風情のあるときもある。冬の凍てついた空に浮かぶ月は、雲がなくとも見ごたえがある。しかし夏は寂しいものである。
 同じ雲でも、全天が薄雲に覆われているときは、変化が乏しい。じっくりと見ることで雲の濃淡で変化が見え始めると飽きない。
 さらに群雲を縫うように見え隠れする月はそれこそいつまで見ていても飽きない。雲の動きの遅速で風情も違ってくる。特に春や秋などは時間の経つのも忘れることすらある。

 また月を見る場所が、都会の中か、人里離れた場所か、山のテント場かによっても違う。特に山のテント場で月と雲を眺める場合、体力にゆとりのある時はどんなシチュエーションでもじっくりと眺めることができる。しかし体力に自信がない時や、翌日の天候に不運がある時は落ち着いて眺めることが出来ない。下山したときの温泉場の露天風呂から眺める月は、ことのほか美しい。

 本日の夜の散歩のときに、今の雲はどのような月を演出してくれるのだろうか。あと1時間後の散歩が待ち遠しい。

 先ほど月を見ながら夜の散歩を楽しんで帰宅。先ほど見たときよりは雲が薄く、かなり鮮明に見えた。やはりいつもより明るいと感じる。大きいとも感じるが、これは大きいといわれているので、そのように見える、といったほうが当たっていると思う。大きく見えるのは、雲の所為といったほうが当たっているかもしれない。
 昔は良く月を見て夜の散歩を楽しんだが、膝を痛めて以降、またコロナ禍以降、夜の散歩をしなくなった。ようやく以前の生活に戻ってきた実感がする。


「弥勒」(宮田登)第2・3章

2023年08月31日 23時03分12秒 | 読書

 夕方から投稿できなくなり、慌てた。ようやくアップできるようになったようだ。

         

 午前中は「弥勒」(宮田登、講談社学術文庫)の第2章と第3章を読了。

「上生」という言い方は明らかに〝往生〟という考え方である。往生は人間のほうで浄土へ行くことを希望するわけである。ところが「下生」のほうは、人間の世界が浄土のレベルへと変化していって、すばらしいユートピアになると考える。‥「上生経」と「下生経」では、「下生経」のでは叙述の仕方からいうと「下生経」のほうがはるかに豪壮、雄大な世界として描かれている。‥「上生経」のほうが「下生経」の後に生まれてきたのではなかろうか‥。」(第2章)

中国の場合には、弥勒信仰が民衆反乱という形をとる。民衆運動と結びつくケースが多い。‥未来仏である弥勒が世に現れてくるという、メシアニズムに基づくものである‥。現実の世界にユートピアが実現できるということは、中国でさらに書く大して受け止めらていた‥。‥動乱期に現れた弥勒仏の性格はすさまじい破壊者として存在している展が特徴であった。‥まず転輪聖王が出現して、その後弥勒仏となる。つまり弥勒仏の単独出世ではないのである。転輪聖王は俗的支配者である故に軍事力を具備し、敵を軍事的に征服する力をもっている。

古代朝鮮の場合は、弥勒仏は支配者側の中に出現したのであるが、王権の力が弱まってくると、逆に一般民衆の中から弥勒下生を名乗るものが現れて、反乱を起こすという形がやがて次々に展開する。
 ここの展開は少し理解できないことがある。中国と古代朝鮮との違いは理解できても、それ以降についての違いについて論理が理解できなかった個所であった。

日本の場合には、弥勒仏の化身であるということを称する存在は明確なものではない。不幸とか災難が来たときに、それを防ぐための呪術的な役割としてしか、豪族たちが仏教を受け止めていない点が明らか‥。

日本には、弥勒を軸とする宗教運動としての反権力的な構想と行動を伴った弥勒信仰が、明確ではない‥。個人的な現生利益と結びついているほうが強い。‥権力との対立抗争といっさいむずびついていないいうことが顕著である‥。」(第3章)
 日本については「権力との対立抗争になぜ結びつかなかったのか」というところが疑問として残っているが、これ以降の展開でどのようになるか、注目して読み進めたい。