台風7号が近畿地方を窺っている。なかなか強い勢力である。台風6号に振り回されて、また7号と連続である。高度にシステム化している鉄道や航空、物流、コンビニ、そして病院などの業界程対応に大わらわである。むろん行政の第一線の苦労も経験者であった私にはよく理解できる。
そんな中、台風を題材にした、今の人からはは少々古い時代の俳句を取り上げてみた。恐怖とどこかワクワクと高揚した気分と、めったにない事態にドキドキした私の小さいころの気分が垣間見える。
★煙突は立つほかなくて台風が来ている きむらけんじ
★颱風の心支ふべき灯を点ず 加藤楸邨
★颱風が押すわが列島ミシン踏む 小川双々子
第1句、自由律俳句であるが、緊張感がある俳句である。自由律と言っても作者独自の体内リズムに沿った「自由律」である。体内リズムと言葉の流れとの緊張感がなければたんなる「口語・話し言葉」俳句で締まりのない句になってしまう。
不思議なもので、下の句を5・7・5にのっとって「台風来」とすると、これまた締まりのない俳句だと思う。
さて、1960年代半ばまで私の住んでいた家の近くには必ず銭湯の高い煙突が聳えていた。近くに町工場があればそこにも煙突は必ずあった。むろん各家庭にも、暖房用の煙突だけでなく便所には臭気を逃すための排気筒もあった。
今思えば、危なっかしいものであった。台風などで大きな煙突が倒れる事故も時々あった上に、家庭の煙突は強い風などがくればぐらついていた。かといって畳むわけには行かない。煙突は「立っているほかない」のである。それが宿命のように、小さな工場あるいは小さな木造の家の「生きているぞ」という意地を示すように。
ある意味では戦後の経済成長を支える証しのような煙突も、とうとう1970年代には邪魔者扱いのように周囲からは消えていった。そして湾岸部のコンビナートに集約された。それが公害の象徴にもなってしまった。都市の住民は、住宅街や町工場から煙突を湾岸部まで追いやった仕返しをされていたともいえる。
第2句、この句はもう幾度も取り上げた。私には函館と川崎で2度か3度ほど夜に蝋燭の火をともして、一家3人台所で緊張していたことがある。台風の雨・風の音がことさら怖く感じたものである。停電になった瞬間の心細さ、そして親が点けた蝋燭の火。弱く、揺れる火ながら不思議な安堵感がもたらされるものであった。
仙台の学生時代には、台風ではなかったがアパートが停電となり、料理用の植物油を小皿に入れ、トイレットペーパーで芯を作り、火をともした時に、小学生の頃の心細さを思い出した。
第3句、これも戦後すぐの句だと思う。台風の強烈な風に家が軋む。それを列島が押されると表現したものと思う。なかなかいい表現である。その不安をかき消すように内職か、家族の服の繕いものをするのであろう。子どもにとってもこのミシンの音は頼もしい音だったかもしれない。「台風が押す列島」という大仰な表現が空回りせず、しっくりとおさまったように思える。