Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「田淵安一展-知られざる世界-」(その1)

2014年07月25日 12時16分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 神奈川県立近代美術館鎌倉で開催されている「田淵安一展を見てきた。田淵安一(1921~2009)という画家、初めて目にする画家である。チラシを見なければ見過ごしていたと思う。チラシの表の「無題」(1953)を見て是非見に行きたいと感じていた。
 チラシを見てすぐに私の好きなパウル・クレーの絵を思い出した。明らかにクレーの絵を下敷きにしている。しかし色合いがさらに私の好みである。



 会場に最初にその絵が掲げられ、次の絵が「母子像」(1952)である。これはピカソの初期キュビズムの時代のような造形と青の時代のような色調が特徴に思われた。この2点をはじめ、1950年代の落ち着いた色彩感覚に魅入られた。
 画家は、1945年の敗戦時には米子の海軍航空基地で迎え、東京帝国大学の美術史科に入り西洋美術史を学び、絵は猪熊弦一郎に学んだという。新制作派協会展に出品したりしたのち、1951年にフランスにわたっている。私が生まれた年である。当時フランスに留学するというのはとても困難があった時代だと思うが、どのようにしたのだろうか。それはさておき、画家は自身の技法の確立のための模索時代であったろうが、同時にひたすら「西欧」を見て回った時期でもあるらしい。1953年にはデンマーク出身の妻を迎えている。
 具象的な絵画を離れてヨーロッパの抽象絵画への傾斜を深めていったようだ。といってもこの1950年代は具象と抽象の間を行きつ戻りつしていたと思える。

   

 この「神の手」(1954)はクレーのような記号論的な解釈も必要な作品に見える。同時に「女の原型」(1955)や「沼に雨が降る」(1958)などの作品もある。「女の原型」には赤子を顔のあたりまで高く掲げたような手と赤子と女の顔、女の乳房の片方がかろうじてわかる。一方で両脇の灰緑色の枠が女性の生殖器の象徴のようにも思える絵である。具象と抽象の融合のように作品に思えたが、私の勘違いかもしれない。



 1950年代末から1960年にかけて抽象表現に大きく軸足を移す。今回の展示では「激流」(1961)と題された作品がそれにあたる。梵字のような黒い造形が、素早い筆遣いを思わせる渦の背景に浮かんでくる。
 同時期の「三元素 風、水、火」(1961)で黒は風を象徴している。風というよりも大気の運動そのものであるようだ。「マンダラ」(1956)などの作品などから画家は西洋という風土に身を置きながら、アジア、あるいは日本ということを意識し始めている。しかしそれは生の形のアジアや日本ではない。画家独特のイメージの産物であり、具体的なものとしては存在しない架空の自然である。これは後半に記すが、とても重要なことのようだ。
 今回の展示、この「三元素 風、水、火」(1961)や「夜すぎるⅠ、Ⅱ」(1960)などの作品が無かったのは残念だったが、2006年にやはりここの美術館で開催された回顧展の図録には掲載されている。
 この時期が画家の技法と表現意識の確立期のようだ。

 さて前回、神奈川県立近代美術館葉山で見た宮崎進(1922~)も1951年に実質的な画家としての第一歩を踏み出している。ほぼ二人は同時代の画家である。
 宮崎進は敗戦後シベリア抑留という極限の体験をし、日本にようやく1949年に戻って故郷喪失者のように北国を放浪し、墨東の旅芸人の中に身をゆだねて、自己回復・自己の存在の探求に向かった。
 同じ年代で田淵安一は軍隊経験まではおなじ体験をしたが、フランスへ渡りそこで宮崎と同じように故郷喪失者として、ヨーロッパという風土の中でふるまう。そして自己の存在の根拠を探ろうとしている。
 終戦という大きな激動を経ることで、原点の喪失-自己回復という過程は同じかもしれないが、その方法と与えられた条件がこんなにも違うというのも考えさせられる。
 宮崎進の方法と持たされた条件は、放浪する人々、底辺の人々への「下降」意識といってもいいものである。宮崎進の1951年以降の諸作品や「旅芸人の手帖」に登場する作品とその表現意識には強烈な生活臭が伴われている。
 一方、田淵安一はそのような具体的な生活意識に根ざした指向は薄い。ひたすら自己の表現スタイルを西洋の技法の水準の中で確立しようとしている。知的な雰囲気も強い。
 鑑賞者にとってどちらが正しいとか、優れているとかという議論はなじまない。あくまでも好みの問題である。同時に両者のあり様を肯定することだってできる。
 両者を心のどこかで対比をしながら、作品を楽しむのもいいと思う。ひょっとしたらそれは日本の戦後の歴史の断面を見つめることになるかもしれない。



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42年前の写真

2014年07月24日 23時15分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は神奈川大学の市民向け講座「アジアの視点 その5」の最終回。最終回の講師の齋藤勁法政大学客員教授と講座終了後に受講生3名とともにビールを飲みに出かけた。講座の講師をしていただいた小沼通二氏と郷田正萬氏も同席された。講師3名のお話を直に聞くことができたのはとてもありがたかった。遅くまでお付き合いをいただき感謝である。
 後期も「アジアの視点 その6」として内容豊かな講座が開催されることを切に願いたい。

 帰宅するためにみなとみらいから歩いていると途中から、雷光が光り出した。携帯電話には「横浜市豪雨情報」が続いて着信した。
 雷光と雷鳴の差から距離をはかりつつ、いつでも周囲の店に駆け込むことができるように用心しながら歩き続けた。雷は幸いにも光は鮮明だが距離は5キロ以上なので磯子足で歩き続けた。家から10分ほどの所で大粒の雨が降り出し、雷の距離も3キロ程になった。歩行から小走りに変えてようやく自宅に無事たどり着いた。
しかし家についてからどんどん雷の距離は遠くなるようで30分後には雨も上がった。特に被害らしい被害が無かったのは嬉しいが、随分と冷や汗も含めて汗をかかせてもらった。

 さて24年前の手紙を紹介したが、実は同時に42年前の写真も数十枚出てきた。昨年の大学の同窓会の時にみんなにコピーして渡せばよかったのだが、その時はこの写真の存在をすっかり忘れてしまっていた。
 この写真は、東北大学の学費値上げ反対運動の時に、大学側がひそかに建物の陰から、あるいは教授室に隠れて、あるいは動員された機動隊の後ろから撮りためていたものである。宮城県警に渡そうとしていた写真らしい。封鎖の当時の写真や、期末試験ボイコットの大きな騒動の時の、政治に無関心であっても試験をボイコットした学生の顔写真が克明に写っている。
 大学を除籍処分された仲間の裁判にかかわっていた私に、当時の教授の部屋に抗議に行った学生が見つけて持ってきた写真である。この写真を見て、私は本当に大学というものに幻滅した。

 ここまで運動が高揚し、学生と大学当局の関係がこじれてしまって大きな騒動になった背景は、学生との対話を一貫して拒否してきた大学当局にも大きな責任があると今でも私は確信している。
 私はその後労働運動にずっと携わってきたが、事態がこじれればこじれるほど、労使の腹をわった話し合いが必要になる。当局にすれば組合という組織だけでなく、職場の雰囲気や感情を職制をとおして探る必要がある。それに耐えられる運動を構築できるかどうか、組合運動の執行部の力量が問われる。当局に足元をすくわれるような方針しか出せないなら、執行部の責任である。切り崩しに負けるような方針を出すこと自体が労働側の敗北である。
 1972年当時の東北大学側は学生自治会や学費値上げ阻止共闘の代表者との話し合いは1度だけは対応したが、とおり一遍の受け答えをしただけで、その後は何の働きかけもしてこなかった。学生側からの話し合い申し出もまったく無視した。そして代表者の頭ごなしに各クラスの自治委員に声を掛けてくることもないし、「裏の切り崩し」すらまったく何もしてこなかった。どんな場合でも「民主主義の基本は話し合い」といっていた人たちの振舞いとしてはとても信じられないものであった、と今でも思っている。
 少なくとも今の私が大学側の当事者ならば、あらゆる伝手を求めて学生との接点を追求したと思う。当然学生自治会や阻止共闘の代表者は「切り崩し反対」というかもしれないが、少なくとも事態をあそこまでこじらせた責任は大学当局が一身に背負わなければならないはずである。
 労使協議のこじれに伴う事態の責任は使用者側が第一義に負うのと同じだと思う。社会のルールを学生に訓示する前に「話し合い」の大切さを身をもって示すのが、本来の教授会の姿勢であるべきであったと私は思う。もしそのような手続きや努力が目に見えていれば、はっきりいって私を含めた当時の学生自治会や阻止共闘の活動家集団の方が学生から孤立していた可能性は十分にあった。
 この写真は裁判の過程で裁判所に提出するかどうかも弁護士を交えていろいろ議論した。結局提出することもなくそのまま私の荷物の中にうずもれて今日まで来た。
 写っている学生の中に私の所属した理学部の同学年の仲間が何人も写っている。大学をかろうじて卒業した者も、大学を去っていった者もいる。あらゆる人生の起点がここに写っているような気がする。
 不思議なことに私は写っていない。いつもデモの先頭や大学側の作った逆バリケードの前に陣取っていたが、「悲しい」ことに写してもらっていなかった。それほどの大物には見られていなかったのかもしれない。もう1人、いつも私と行動を共にしていた同じクラスの友人も写っていない。今思えば残念である。写っていたならば娘に「誇りをもって」見せていたのだが‥。




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神奈川大学生涯学習講座「アジアの視点 その5」最終回

2014年07月24日 11時32分42秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 子供会の活動の一環としての資源回収日。紙・雑誌類の中に昨日までまとめた本を出した。先ほど回収してくれて玄関にうずたかく積もっていた束ねた本が無くなり、すっきりとした。後は棚に分野別に入れ直すだけとなった。半分はすでに整理済みなのであと2~3日ゆっくり片付けようと思う。ここまでくれば楽しみながら作業ができる。読んでいなかった本なども再度チェックするのも楽しみである。

 本日の講座は「アジアの視点 その5」の最終回。講師は齋藤勁前内閣官房副長官・法政大学大学院客員教授。というといかめしいが、実は私の属していた組合の出身議員である。参議院から衆議院に鞍替えして内閣入り。議員を引退して後も沖縄・アメリカに精力的に出向いて活動している。
 市民向け講座も夏休みの様相。前期の講座がほぼ終了し、8月に入ればもう後期の講座の案内が来る時期である。8月・9月は片手で数えるほどしか講座がない。少しさびしいような感じである。

 この「アジアの視点」の連続講座はなかなか思白い企画である。副題は「激動するアジアの現状を分析する」。神奈川大学の講座の案内パンフレットでも最初に記載されている。毎回違う7人の講師による講演であるが、できれば最後に7人の講師によるパネルディスカッションでもあれば面白いと思う。講座の内容をまとめたり、企画者の思いなどと今後の課題などの整理を公開してもらえることを願っている。




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24年前の手紙

2014年07月23日 21時57分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は朝一番でかかりつけの内科で薬を処方してもらってから、昼まで受講。午後は友人とランチを食した。久しぶりにつけ麺なるものを注文してみた。とんこつ味のかなり味の濃いスープであった。太麺が美味しく麺は完食したが、スープは少し残した。でも決してまずくはなかった。つけ麺の方が多少は塩分が少ないのかもしれない。
 そのあとビールを少々。明日は休肝日のつもりであったが、夜に別の友人とビールでも飲むことにしている。25日に休肝日として、翌日からの山行に備える予定。雲取山といえ侮ってはいけないと、自戒しつつ‥。

 先ほど帰宅して夕食、一舟250円だったというサーモンと鯛の刺身。これはなかなかおいしくいただいた。

 昨日記載したブラームスの弦楽六重奏曲を再度聴いている。聴きながら書き忘れたことを思い出した。この六重奏曲の第1番、演奏者(コチアン四重奏団+スメタナ四重奏団からの2名)は強弱もテンポもかなり抑制的であると思う。映画に使われることで作曲家の意図したよりも思い入れたっぷりに情緒的に演奏することが当たり前になっていたのかもしれない。このような曲は抑制的な演奏の方が飽きることがない、と思っている。

 部屋を片付けていたら24年前の手紙が出てきた。当時の職場の近くにある小学校の6年生が、訪問してきた時のお礼の手紙とポラロイドの写真である。近くにある大きな橋梁を架けたいきさつや役割をグループの課題として取り上げて、調査に来た。
 当時は子どもたちや市民に私たちの仕事を公開することはあまりなかったが、前年の夏休みに私が企画して、鎌倉時代の古道のハイキングを区内の小学生を対象に行ったことがある。そんなこともあり、子どもたちが職場を訪れてくれたことはとても嬉しかった。
 担任の先生から前日に予告があって、所長以下ドギマギしながらかわいいお客さんをもてなした。私が案内係を任せられていた。ちょうど横浜でも大雪が降った日で所内大騒ぎでごたごたしていたが、逆に大雪の日という災害時の状況も見てもらったのは望外の収穫であった。雪掻きで戻ってきた職員が疲労困憊して頭から湯気を出してフウフウいっている姿や、重機で雪を運び出しているのを見て、とても驚いていた。
 後日私宛に子どもたちのお礼の手紙とポラロイドの写真、担任の先生の丁重なお礼状が郵送されてきた。それを2年ほど所内に貼らさせてもらった後、私が貰うことになって保管していた。すっかり忘れてしまっていた。38歳の私は髪の毛も黒く、スリムで若々しい。妻に見せたら笑われてしまった。
 それ以来、自分たちの仕事や働いているところを出来るだけみんなに見てもらうという企画が継続していることは、今でも楽しい思い出になっている。
 訪れてくれた子供たちももう30代半ばを過ぎて、その子供たちが同じような歳になっていると思うと、自分がとても歳をとったと思う。

 ポラロイド写真は劣化し始めているので、スキャナーで取り込んで画像処理をしたら以前のように鮮やかになった。この写真と手紙は捨てられない。宝物として大事に保管しておこうと思う。



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ブラームス「弦楽六重奏曲第1番&第2番」

2014年07月22日 22時57分28秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 昨日取り上げた弦楽五重奏曲がブラームスの後期から最晩年にかけての雰囲気の曲ならば、この弦楽六重奏曲は若々しいフラームスの息吹を堪能できる曲である。

 ブラームスはベートーベンという先行者との格闘を経て自立していくわけだが、自作をベートーベンの同種の作品との比較してしまうという意識が先行し、自信を持てなかったようだ。
 弦楽アンサンブルもベートーベンの弦楽四重奏の16曲という大きな壁を前に逡巡していたようだ。さらにシューベルトのチェロを加えた弦楽五重奏という試みを引き継いで、さらにビオラを加え六重奏として、ベートーベンにはない編成の弦楽アンサンブルとして世に問うたということのようだ。慎重というか自意識過剰な控え目、過度の自信の無さが初期のブラームスを解く鍵である。
 この過度に控えめな性格は恋愛でも発揮されたようで、25から26歳にかけてアガーテ・フォン・シーボルト嬢との恋愛が破局している。なお、アガーテは江戸時代の1823年に日本に来たフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの従兄弟の娘である。
 しかしビオラとチェロを各1本加えた、中低音に厚味のあるアンサンブルは私の好みである。ビオラとチェロの活躍はベートーベンの弦楽四重奏曲よりも私にはとても優れたものに思える。あブラームスらしい新しい発見、創造だと思う。

 第1番は1860年27歳の作品である。
 先に記した恋愛の破局とそのことから一定の落ち着きを反映しているのかと思えてしまうほど、この翌年にできたこの曲はとても甘い曲想である。それゆえか特に情感たっぷりの第2楽章は、ルイ・マル監督の「恋人たち」(1959)で使われたことは、この曲をさらに有名にした。あまり映画を見ない私も学生の頃見た記憶があるが細部は覚えていない。この曲を聴くために見に行った気もする。
 この前年にピアノ協奏曲第1番を完成したが、聴衆からは退屈であるという非難がおこりさんざんな目にあった。かなり精神的にキツイ状況のなかで作られた曲である。感情・情緒に流され、管弦楽法などの技法が追い付かないなどの欠点が現代の評者からは指摘されている。
 ブラームスらしい変奏曲の形式のこの曲ではある。しかし私などには少々甘く流されてしまったようで、メリハリがないような気がするのは私だけだろうか。情緒があまりに先行しすぎているのかもしれない。

 実はこの第2楽章、クララ・シューマンに献呈されたのだが、献呈されたクララもちょっと戸惑ったのではないかと勘ぐってしまう。あるいはクララの存在がかの恋愛の破たんの原因かもしれない。これは私のあくまでも推測でしかないが‥。

 第2番は、第1番から5年経って作られた。このCDの解説では第1楽章の「A-G-A-D-H-E」(アガーテ)の音型は7年前のアガーテの思い出として挿入したと記載しているが、私はこれに否定的である。他の解説書でも肯定するブラームスの言及もないし伝記作者以外にも証人はいないようだ。
 この第2番は第1番とどうような初期の作品だが、第1番よりさらに進化しているので、そこまで事件を惹きづっているようには思えないし、それに引きづられたような甘い曲ではないとおもう。
 映画の影響もあり戦後脚光を浴びて有名になった第1番にくらべ、演奏される機会は少ないが、曲としてはこの第2番の方が完成度も高いような気がする。ブラームス特有の甘い旋律は適度に処理され、情緒に流されていない。室内楽曲としてゆったり音響の楽しみ、アンサンブルの妙味が伝わってくる。各パートに旋律が移行する処理も、旋律と分散和音の調和も抑制が効いていると思う。旋律に含まれる情感というのは、強調しすぎると押し付けになる。感情は押し付けになると上滑りして底が浅いメロドラマになってしまう。
 第1楽章の冒頭からビオラのうねるような伴奏の上にバイオリンとチェロが主題を交互に奏でる掛け合いに魅了されてしまう。この呈示部から展開部に移るときに「アガーテ音型」が出てくるが、特に重要なパッセージとは思えない。経過的な音型なので、それほど重要な役割はないと思える。私の聴き方が悪いのかもしれないので、断定はできないが‥。
 第2楽章のスケルツォとトリオの極端ともいえる曲想の転換がいかにもブラームスらしいと思える。早いトリオの後半に出てくるバイオリンのユニゾンが美しい。
 第3楽章は変奏曲のスタイルだが、バイオリンが奏でる主題は実に不思議な旋律である。美しい終結は特筆もの。
 第4楽章はシンフォニーのような厚味のある華やかな終結になっている。

 この弦楽六重奏曲の2つの曲は、若い頃の同時代の作だが、雰囲気は随分と違う。第一歩のような第1番と、次のステップを果たした充実の第2番とでも云ったらいいのだろうか。




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またまた書籍を処分

2014年07月22日 16時02分10秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午前中は歯医者のあと、田淵安一展の図録に収録してある神奈川県立近代美術館企画課長橋秀文氏の解説などを読んで過ごした。
 午後からは部屋の片付けを続行。本を処分しないとどうしても片付かないので、日本史関係の書籍の3分の1にあたる新書など120冊余りを廃棄することにした。片付けていたらもう必要のないパソコン関係のハウツーものも10数冊出てきたのでこれも廃棄することにして、紐でまとめた。
 全体でどのくらいの冊数を処分したのだろうか。近くの古書店は、ハードカバーはまず値がつかない。新しい文庫・新書できれいなものに限られる。書き込み等のあるものはまず引き取らない。今や絶版の本が希少価値だなどという理屈は通用しない。残念ながら。
 単行本など整理はされているがまだ居間の本棚にぎゅうぎゅう詰めである。今の本棚も二重に重ねている。ここはもう詰め込むゆとりもない。実家にも本棚二つ分がある。いづれ死ぬまでには片付けてしまわないと、遺されたものに迷惑が掛かってしまう。
 最近図録が嵩張っている。どれも図体がでかいのと、形がばらばらなのが困ったものである。しまいにくい。置く棚が限られてしまう。

 夕方からはまたウォーキングに出かけることにした。日が陰ってきたので2時間ほどこれから出かける。昨日はカンカン照りでつらかったが、本日はさほどでもなさそうだ。




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ブラームス「弦楽五重奏曲第1番&第2番」

2014年07月21日 23時38分37秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 弦楽の室内楽をブラームスはこだわりをもっていたようでいくつも作曲している。
弦楽四重奏曲の第1番(1873)、第2番(1873)、第3番(1875)
弦楽五重奏曲の第1番(1882)、第2番(1890)
弦楽六重奏曲の第1番(1860)、第2番(1865)
 ピアノが加わった曲は
ピアノ三重奏曲(ピアノ+バイオリン+チェロ)の第1番(1890) 、第2番(1882)、第3番(1886)
ピアノ四重奏曲(ピアノ+弦楽三重奏)の第1番(1861)、第2番(1861)、第3番(1875)
ピアノ五重奏曲(ピアノ+弦楽四重奏)は1曲(1862)
 クラリネットが加わった
クラリネット三重奏曲(ピアノ+バイオリン+チェロ)が1曲(1891)
クラリネット五重奏曲(ピアノ+弦楽四重奏)が1曲(1891)
 ホルンによる
ホルン三重奏曲(ホルン+バイオリン+チェロ)が1曲(1865)
 ここではソナタなどの二重奏は省略している。いづれも傑作と云われる曲である。こうして並べると若い頃から晩年にいたるまで弦楽室内楽の音の冒険をさまざまにしている様子がわかる。




 特に弦楽だけの曲は初期に六重奏、中期に四重奏、後期に五重奏とそれぞれまとめて作曲している。五重奏曲第1番は49歳の年に作られ、前年にピアノ協奏曲第2番、翌年に交響曲第3番を作っており、充実した時期である。第2番は最晩年の57歳の年の曲で、翌年のクラリネット五重奏曲と同三重奏曲とともに最後の室内楽曲となる。1888年以降管弦楽曲は作曲しておらず、ピアノ曲と歌曲だけとなる。
こうしてみるとこの弦楽五重奏曲はブラームスにとって重要な曲であると思う。弦楽四重奏曲にビオラを加えることで、響きの厚みを増すことを意図したと思われるが、同時に旋律楽器としてもビオラが活躍している。

 第1番は私は第2・第3楽章が気に入っている。第2楽章の終わりの消え入るような弱奏バイオリンの美しいソロ、そして第3楽章のビオラを多用した厚味のある早いフーガは緊張感の持続が心地よい。
 第2番は、第1楽章の躍動感ある第1主題を聴くとすぐにこの曲の世界に入り込んでしまう。無窮動のような賑やかな旋律のあと明るい第2主題の旋律が心地よい。、第2楽章の悲哀に満ちた穏やかな曲想がバイオリンの高音を支えにビオラ・チェロが歌う個所が気に入っている。その後一転してバイオリンが高音で奏でる旋律も美しい。「悲しみのワルツ」といわれて有名な第3楽章の悲哀に満ちたゆれるような出だしはブラームスならでは。さらに一転して第4楽章の早い旋律の合間に響いてくるバイオリンの穏やかな旋律が効果的である。ブラームスの弦楽アンサンブルの最後を飾る曲としてとても印象深い。

 ともするとビオラはバイオリンとチェロの音色の間で埋もれてしまうのだが、このブラームスは巧みにビオラを旋律にも響きの厚みを増すためにも巧みに作っているようだ。私はビオラの響きの美しさをこの2曲で覚えた。

 2曲とも交響曲などの大編成の趣きとは随分と違うブラームスらしさを堪能できる。かといって甘い旋律に流れないところが私の好みだ。






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スキャン作業

2014年07月21日 16時19分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日も今のところ雲は多いが雨は降らないで済んでいる。
 午前中に田淵安一展での気に入った絵を図録からスキャンを始めた。お昼からウォーキングに出かけて約1万5千歩ほど。夕方にかけて部屋の片付けをする予定であったが、スキャン作業が遅れて先ほどようやく終わった。あと1枚、A3でしなくてはいけないので、夜にコンビニにでも行くことにした。
 スキャナーは快調に動いているのでスキャンは終わるが、どうまとめるかまだ頭の整理が出来ていない。

 明日は部屋の片付けを是非とも再開しないといけない。妻に叱られそうである。

 18時30分から団地の管理組合の諮問会議。事前に資料を読まないといけないのでこれから勉強の時間。



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鎌倉・鶴岡八幡宮の蓮

2014年07月20日 22時43分40秒 | 山行・旅行・散策
 19時15分位から雷が鳴りはじめた。19時30分頃には久しぶりにすごい雷雨となった。いなびかりから1秒もしないうちに雷鳴が轟き、窓ガラスがビリビリと震えた。また地鳴りのような雨の音がしていた。一昨日の雷雨よりもひどかった。
 21時を過ぎた今もはるかに遠くになったが、時々雷鳴がとどろき窓ガラスを震わせている。落雷による電車の運休などの被害も出ているようだ。
 21時47分にようやく大雨洪水警報が注意報に切り替わった。まだ少し降っている。

 本日神奈川県立近代美術館の鎌倉館に出かけた。鎌倉は夏休み最初の日曜日ということもあってか人通りがすごい。小町通りの人ごみを避けて、若宮大路の参道を通って鶴岡八幡宮の境内に入ると源平池の蓮が見ごろであった。旗上弁財天社の周囲はピンクの蓮が密生して水面も見えないほど。近代美術館の傍は白の蓮が点在している。白の方が全体的に花径が短いようだ。

 美術館の周囲の木立ちの陰からの眺め、また池に張り出したテラスからの眺めは、涼しさを味わえる。蓮の大きな葉が太陽の照り返しで白い蓮の花はあまり目立たないが、それがかえって遠慮深げで申し分ない。美術館はいい建物だが古くなっている。土地の貸借関係で閉館になるというのもさびしい限りである。何らかの形を残すか、せめてこの池の景観を楽しめる空間は残してほしい。

 部屋の片付けばかりで、歩くことをしていなかったので帰りは保土ヶ谷駅で降りて横浜駅の傍を通って帰宅。久しぶりに2万歩となった。

 「田淵安一展-知られざる世界-」、なかなか刺激的な絵である。図録も1600円という安価。これは近いうちに是非感想をアップしたい。

 写真はごく小さな携帯型のカメラによる撮影のため、ピントが合っていなかったりいろいろ不満があるが、とりあえず雰囲気を残しておくためにアップした。ご容赦を。

                    




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久しぶりに神奈川県立近代美術館鎌倉へ

2014年07月20日 12時09分55秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 朝の内は昨日出した廃棄物を紐で縛り、玄関の傍に整頓した。



 部屋の片付けばかり数日続いているので、さすがに飽きた。お昼からの片付け作業は中止して、神奈川県立近代美術館の鎌倉館で開催している「田淵安一展-知られざる世界-」を見に行くことにした。

 チラシの表の絵が気に入っている。1921年生まれで2009年に亡くなっている。フランスにわたりそこで亡くなったとのこと。初期の具象から抽象へ移行し、厚塗りのマチエールの作品を描くようになったとのこと。今の私に興味を惹く紹介が書かれている。

 世田谷美術館の「ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展」(前売り1300円、~9/15)や、国立新美術館の「オルセー美術館展-印象派の誕生-」(前売り1400円、~10/20)も行ってみたいが、少々高い。鎌倉は700円。今年は値段を気にしないといけなくなった。





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久しぶりに深夜のテレビ

2014年07月19日 22時19分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日と明日にかけて横浜港で3000発の花火大会とイルミネーションを纏った船が浮かぶ等の催しが行われる。花火は最後の方を少しだけみた。さいわい、雨はあがって雲の切れ目も見えていたので、花火はよく見えた。
 そしてちょうど今、大雨・洪水注意報が解除になった。明日にかけての雨は回避できたのかもしれない。
 しかし明日の夕方はまた天気が悪いようである。花火やイベントはどうなるのだろうか。

 さて、中・高時代の同窓生のツィッターで『今夜23時から、NHK・Eテレ「日本人は何をめざしてきたのか~知の巨人たち」で、戦後民主主義を求めて:政治学者・丸山真男、肉声で語る被爆・敗戦、60年安保闘争、日大全共闘・東大紛争を特集する』との情報をいただいた。
 これを見てから今日は就寝することとしよう。途中で寝てしまわないようにしなくては‥。

 葦原の山姥様に見習って、少し健康的でスマホ・パソコン依存の生活をあらためるべく努力も必要か。



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アーノンクール指揮のバッハ「バイオリン協奏曲」

2014年07月19日 20時18分06秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 雨が止んでから、大雨・洪水・雷注意報が発令された。夜遅くから明け方にかけてかなり降るとの予報が出ている。

 本日の片付け作業は終了。本棚のどこに何を置くか、もう少し考えないといけないようだ。しかしとりあえずこの本の移動が済めば作業が終了する。最終局面が見えてきた。



 本日の作業中にかけていた曲は、バッハのバイオリン協奏曲5曲。普通バッハのバイオリン協奏曲というと、BWV1041~1043の3曲だが、このCDにはチェンバロ協奏曲からバイオリン協奏曲へ復元した2曲が含まれている。
 バッハのチェンバロ協奏曲の多くがもともとバイオリン協奏曲であったということでチェンバロの譜面からバイオリンパートが復元され演奏される機会が多い。
 バッハの協奏曲はビバルディの協奏曲のスタイルを踏襲していて、急-緩-急の3楽章形式を守っている。そしてソロ楽器の華麗さ(第1・第3楽章)と抒情性(第2楽章)が備わっていてわかりやすくファンが多い。
 しかしこのアーノンクールの演奏とは違い、私が初めて聞いた1960年代末当時はまだ楽譜の指示よりも劇的で強弱もテンポも変化の大きな、そしてピッチの高い調律による演奏が好まれていた。アーノンクールの演奏はとても新鮮で私には好ましい演奏に思えた。
 このCDは1985頃にアーノンクールのレコードを廃棄してから、代わりに購入したCDだと思う。

 イ短調のBWV1041、ホ長調のBWV1042、「二つのバイオリンのための」ニ短調のBWV1043の3曲はあまりに有名である。3曲とも印象深い旋律でそして「整った」という印象がまず思い浮かぶ。このCDの解説でも「気高い美しさ」という言葉が出てくるが、その通りだと思う。

 復元されたというト短調のBWV1056Rはちょっと重たい出だしだが、すぐに早いパッセージで明るく抜けるような第1楽章になる。
 最後のニ短調のBWV1060Rは、オーボエとバイオリンという似た音色の楽器による協奏曲だが、これが不思議といい。2台のバイオリンとはまた違った良さがある。オーボエの安定した音程が心地いい。

 アーノンクールという指揮者は1960年代、1970年代には「古楽器」と「古くからの演奏法」、「楽譜の指示」による復元演奏で有名であった。このCDでも演奏している「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス」はアーノンクールが自ら組織して1957年から活躍していた。ソロバイオリンのアリス・アーノンクールは夫人。しかし古楽ばかりの指揮者ではなく、1980年代からは20世紀の音楽も指揮し注目を浴びていた。1929年生れだから、今年は95歳のはずである。





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38年分の手帳を処分

2014年07月19日 15時24分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 14時を過ぎた時分から横浜では雨が降り出した。次第に強くなっている。いかにも梅雨らしい降り方だと思う。少し明るいような気もする。子どもがいなくなった遊び場で鴉が盛んに鳴いている。
 15時過ぎからは雷がなり始めた。梅雨末期の様相なのかもしれない。

 本日も部屋の片づけの続き。文具類を片付けたり廃棄したりしてだいぶスペースが出てきた。
 退職後増えたものは、美術館・博物館を訪れた時のチラシや資料および各種講座の講義録のファイルである。また美術関係書籍が増えている。最近現役時代に買いだめしておいて聴くのを楽しみにしていたCDを随時アップしているので、天袋にしまい込んでいたスコアー・楽譜を少しだけ本棚に戻してみた。CDの紹介時に活用してみようかと思っている。
 いくつかの現役時代の資料も廃棄しなくてはいけないので、今回思い切って就職してから現役最後の年までの38冊の手帳を廃棄することにした。
 まず手帳のカバーは毎年妻にハンカチや端切れを縫ってもらっていた。年末になるとブツブツ言いながらも毎年新調してくれた。感謝である。そのカバーは1年間の酷使で手垢にまみれている。妻におうかがいをたてたところ、「嫌々作っていたのだからもう見たくない」との言葉とともに「即廃棄」と宣告された。
 手帳の中身をバラバラめくってみたら就職した1975年から54歳になった2006年までは実にイッパイ書き込みがある。朝8時から夜22時までほぼ毎日埋まっている。込み合っているところは15分刻みで予定がいっぱいで今となっては読み取れないほど細かい字である。
 そして実に色鮮やかである。時々色の使い分けは変わっが、仕事、支部の機関会議・交渉、単組の会議や集会、上部団体の会議、夜中心の仲間との打合せ、家族とのお出かけ、音楽会や美術展・山行・読んだ本、その他と4色のボールペンでは間に合わずその他の色のボールペンも使って賑やかである。
 捨てるのは当時の自分を捨てるような気もするが、かといって持っていても何の役にも立たない。政治家なら回顧録でも書けばお金になるかもしれないが、私の回顧など読む人などいないし、書く気もさらさらない。
 仕事では市庁舎のある関内と職場のある区内、組合では組合の会館のあった西区・南区と交渉事で市庁舎のある関内を駆けずるまわっていた。幸い地下鉄1本でかなりの個所をカバーできたから助かったと思う。それでも移動も含めて15分単位でよくもこれだけ活動を続けたと思う。
 そしていっぱいのスケジュールの合間を縫うようにして山行や美術館巡りをしている。よくその時間を捻出したといまさら感心した。だから天候に関係なく山に勇んで行ったのである。「亭主元気で留守がいい」を実践してきたようだ。
 病気でダウンして入退院を繰り返した2000年から2004年も退院日の翌日に神戸に出張にいっている日もあった。今思うと呆れてしまう。
 さすがに56歳になった2007年以降は隙間がどっと増える。仕事がその分増えているが、仕事は窓当番やパトロール等の定例的な事項以外あまり書き込んでいない。
そのまま捨てられないのが、数年に一度書き換えていた手帳に挟み込むアドレス帳。住所・電話・職場電話などすでにもうほとんどが無効なのだが、それでもシュレッダーで処分した。

 しかしこんな遊びもしている。手帳をめくった最初のページや仕切り板を、自作で作っている。山で撮影した写真と下手な俳句を使っている。そんなことをしたこと、すっかり忘れていたが‥。

   

 かたづけの見通しが少しずつたってきた。あと数回でとりあえず終了できそうである。




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4度目の雲取山と台風10号

2014年07月18日 22時02分36秒 | 山行・旅行・散策
 先ほど20時15分位の時に突然雷鳴が轟いた。初めは「今日が花火だったか?」とあわてて外に出て見ようとしたら、それに続いて猛烈な雨の音が迫ってきた。スマホには雷鳴のとどろく20分前に「この区に時間換算雨量50ミリ以上の雨が降る」とのメールが来ていたのに気付かなかった。
 雷鳴はごく短時間でおわり、突如降り出した雨も10分もしないで止んだので、多分被害は出ていないと思う。
 しかし山梨県甲府市あたりに強い雨の区域があるようで、ともに東南に動いて横浜の中心部に向かっている。明日の朝まではこのような雨が繰り返すのだろうか?またこの時間から風が強まってきた。

 本日はあまり作業が進まなかった。途中で頭痛が始まり、ロキソニンを服用してしばらくベッドで休息してから、点眼薬を処方してもらいに眼科へ。
 帰宅後再度ボチボチを作業再開した。廃棄の書類等を50冊ほど出してから、分野別に本の占める場所を変えることにした。
 しかし新書版の日本の古代史関係の本が300冊くらいある。よくもこれだけ買い込んだものだと感心している。8割は読んでいるが、何処の場所を占めるか悩みどころである。保存書籍は著者別に並べてある。歴史書については網野善彦を除けば分野としてまとめなければならない。再度かなりの量の廃棄も考えなくてはいけないかもしれない。

 今年の山行の手始めは単独ではなく、妻と雲取山に行くことにした。昨年まで梅雨明け直後を狙って単独で北アルプスに行っていたが、今回は梅雨明けは夏休みに入ってしまうようだ。来週の土・日の二泊。
 奥多摩駅からお祭りバス停で降りて、三条の湯-雲取山-三峰神社-三峰口というコースをたてた。先ほど「三条の湯」と三峰口の民宿に予約を入れた。しかし台風10号が怪しい動きである。最悪台風にぶつかる。その場合はキャンセルさせてもらうことを宿には伝えてある。一週間はヤキモキしながら過ごす羽目になりそうだ。

 雲取山は私は4度目。

 最初は1983年11月で、奥多摩駅から石尾根を登って雲取山避難小屋で泊まり、長沢背陵を天目山まで歩き日原に1泊2日で降りている。32歳で一番減量していた頃で体力と歩行の速さは抜群であった。

 2度目は、1986年5月で鴨沢から七ツ石山をとおって雲取山に登り、奥秩父縦走路を飛龍山、笠取山、雁坂嶺まで行き雁坂峠から新地平に降りている。2泊3日。この時はテント場でない飛龍山の手前の北天ノタルでテントを張り、2泊目は今は無くなっている雁峠小屋となっている。

 3度目が1988年1月で、丹波から飛龍山を経由して雲取山に登り、三峰神社まで。1泊2日だが、この時もテント場ではない飛龍山の手前の飛龍権現でテントを張っている。この時は寒かったことをよく覚えている。雪が結構積もっていた。雲取山から三峰に向かう尾根では4本爪の軽アイゼンを着けていたが、膝を超す雪があり難儀した。

 いづれも体力にものをいわせた山行であった。しかしテント場ではないところでのテント泊、関係者の皆さんには申し訳ない事をしている。

 また、南アルプスはもうしばらく様子をみてから決行することにした。




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ブラームス「ピアノ三重奏曲第3番」の感想

2014年07月18日 20時43分56秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 本日は片付け作業をしながらブラームスのピアノ三重奏曲第3番を聴いていた。メロディーとしてはこの曲が一番ポピュラーかもしれない。懐かしく思えるメロディーが4つの楽章にそれぞれある。
 この曲の作られた1886年はブラームスにとっては幸福な時期であったようで、ヨーロッパアルプスの眺めのよいスイスで過ごしたようだ。バイオリンソナタ第2番、チェロソナタ第2番を造っている。その延長上に作られた曲というのは頷けるような明るい、そしてバイオリンとチェロのためのピアノソナタとでもいうような曲に仕上がっている。
 私がこの2枚組のCDを購入してすぐに印象に残った曲がこれであった。第1楽章の第2主題のバイオリンとチェロの重奏が美しい。第2楽章は弱音器での演奏でこの手の編成では不思議な音色に聞こえる。最後の明るい終了の仕方も気に入っている。そして3種の楽器の重層的バランスというよりも3種の楽器が追いかけっこをしながら次から次に自己主張するような緊張感も同時にある。いつ聴いてもいい曲である。忘れることのできない曲でもある。





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