昨日訪れた国立西洋美術館では小企画展「描かれた夢解釈-醒めて見るゆめ/眠ってみるうつつ」展をしていた。
今回の展示のコンセプトについて、以下のように解説されている。
「目醒めているときには見られないような、偉大な理論と優品を、夢のなかでいかにしばしば見ることであろうか。だが、目醒めれば、その記憶は失われるのだ」(下村耕史訳)――ドイツ・ルネサンスを代表する画家、アルブレヒト・デューラーは、未完に終わった『絵画論』の草稿に、そう書き残しています。
「優れた画家の心は形象で充ちている」と記し、晩年には終末的な洪水の夢を見たことでも知られるデューラーは、人間の心内に蓄積された無数のイメージ記憶が、目醒めているときよりも眠っているときにこそ活発に動きだし、豊かな変容を遂げていくことを、20世紀におけるシュルレアリスムの台頭などより遥か以前、16世紀初頭の時点で、どうやら敏感に悟っていました。
こうしたデューラーの思考が物語るように、西欧の芸術家たちはルネサンス期以来、しばしば「夢」に対する関心を露わにしています。しかも、彼らはそれをただ言葉で論じるだけでなく、絵画や版画によって描きだしてもいました。それらは1900年にジークムント・フロイトが『夢解釈』を書くのに先立ってなされた、「描かれた夢解釈」とでも呼べる試みではなかったでしょうか。
当館の所蔵作品によって構成されるこの小企画展では、デューラーやジョルジョ・ギージ以降、フランシスコ・デ・ゴヤやマックス・クリンガー、フェリックス・ブラックモンやオディロン・ルドンといった近代画家たちまでの「夢」の表象を集め、さらには「メフィストフェレス」や「聖アントニウスの誘惑」といったテーマに光をあてることで、西欧における「眠り」や「夜」、無意識の「欲望」や「誘惑」のイメージに迫りたいと思います。」
ルネサンス期やそれ以前の寓意画・風刺画などはよくわからないものばかりである。何が描かれているのか、描かれているものが何を象徴しているのか、背景の物語や教訓は何なのか、わからない。ときたま解説があるが、それもよく理解できないものばかりである。
西洋の中世の世俗を引きづっていたルネサンス期や近代、しかしそこににいたる道筋の中で、次第に忘れ去れた中世的世界や世界観というものは、なかなか理解が至らないようだ。高校の教科書的な歴史把握ではとても手の届かない、光と闇が複雑に交錯している。
同時にそれを外から取り巻いていたイスラム教的世界はさらに私などには手が届かないというのが正直なところである。
国立西洋美術館を訪れるたびに、版画素描展示室で西洋の銅版画の世界を特集した展示が行われている。いつも足を踏み入れるのだが、よくわからないままに部屋を出てしまう。
私は感覚的に絵画を見て「理解」するということがなかなかできない。邪道と云われようが、書き言葉での解説が無いと次の一歩が出てこない。つい書き言葉に頼ってしまう。
時代も歴史もよく理解していないと「ふーん」で終わってしまう。細部までくまなく見つめたとしても、感動が伴わないからすぐに忘れてしまう。
〈オディロン・ルドン 《そして、あらゆる種類の恐ろしい動物達が現れる》 『聖アントワーヌの誘惑』第1集(1888)〉
ただし今回はオディロン・ルドンの作品が多数展示されていて、少し嬉しかった。ルドンという画家、不思議な造形に多くの人が惹きつけられる。私もあのグロテスクな造形に親近感すら抱くことがある。
このような作品世界の解釈などに足を踏み入れてしまうと、自分が収拾がつかないようになるのではないかという「怖れ」と「誘惑」が背後から迫って来る。特にルドンなどの魅力に触れるとその感を強くする。現在の私にはこの世界を語る資格はまるでない。しかしどこかで惹かれる自分がある。