2010年に6回にわたり高島野十郎の作品を私なりに感想を述べた。当時銀座美術館で「高島野十郎と同時代作家展」が開催されでそれを見に行った。図録は無かった記憶があり、「高島野十郎画集-作品と遺稿-」(求龍堂)を5040円で購入した。随分高かったが遺稿集も豊富であった。図版の色調も原作に近くて購入してよかったと思っている。
今回は2500円で安価であるものの、色調はちょっと色が濃い目である。チラシに取り上げた作品も少し色が濃い。
私はこの「百合とヴァイオリン」(1921-26)は今回初めて見たような気がしている。実際は見たかもしれないが、印象に残っていない。
実は今回の展示の目玉のような取り扱いでチラシの表面の半分を使っている。当初暗い色調の画面を見て、立体感もあり、白い百合が効果的であること、さらにヴァイオリンの側面の板にあたる光と百合にあたる光が呼応していて温かみを感じたことで是非見たいと思っていた。
まず高島野十郎にしては初期の31歳から36歳にかけての作品であることに初めて気がついた。そしてチラシで見たよりも実際の作品には立体感が少ないと感じた。
実は図録に42~43ページにかけて目黒美術館の学芸員の山田敦雄氏が的確に記載されているが、ここでは私なりの実際のヴァイオリンを机の上に置いた感じとの違いを上げてい見た。重複もあるかもしれない。
まずヴァイオリンの一番手前の部分の側板の下側が湾曲して机の面との間に隙間が出来ている。ここは本来ヴァイオリンの底の面が外側に湾曲しており、それによって持ち上げられるように隙間ができるはずなのに、反対の湾曲になっている。さらに弦をひっぱっている黒い黒い部分が実際よりも長いためにヴァイオリンの駒よりも人体側が長い。そのためにヴァイオリンの丈が伸びで平べったく見えるようだ。
また駒も低く描いており、また弦を左指で抑える黒い部分(指板)が机の向こう側の水平線よりも高く描かない描かなくてはいけないのに曖昧に壁の色とまじりあっている。ヴァイオリンの駒よりも上部の右側が欠落しているようにすら見える。
さらに気になるのは、弦を支える渦巻きが曖昧で画面上不鮮明である。最後に弦であるが、毛の部分が真っ直ぐでなければならないか、毛を緩めている状態ならば毛はバラバラにわかれていなければならない。少なくともひとつの歪んだ面としては描くのは現実味がない。そして弓の木部そのものが歪んでいる。これでは弓としての機能は果たせない。同時に弓の先端が持ち上がっているが、これは弓の先端を高さのあるものに置いているはずなのに、渦巻きに近い方の糸巻きに乗っているようにも見える。これは手前の糸巻きとの関係からは無理な置き方である。
ヴァイオリンを見続けた私にはヴァイオリンがあまりに薄く見え、また実際の複雑な曲面を無視しているように見えて不思議であった。
百合の花の茎は、他の高島野十郎の作品の木や芥子の花のように歪んでうねっている。
私は人工物としての美の極致のようなヴァイオリンの造形と、自然物としての百合の造形が、同時に混在して相互に呼応しているのが手に取るようにわかる。実際とは違った歪みやうねりが、高島野十郎という画家の眼と造形の仕方による必然的なうねりや歪みとして見える。これが高島野十郎という画家の「リアリティ」の出発点のように思える。
物体の持つ厚みや奥行きを歪めてまでも、あるいは物体のある部分を欠落させても、こだわった点は何なのだろうか。
この疑問がこの画家の作品鑑賞のポイントだと感じた。
この作品で云えば、百合という自然物の持つ曲線とヴァイオリンの板が持つ不思議な曲面や曲線との呼応を画家は描きたかったのだと思う。そのために白い百合の花のすぐ下の曲線とヴァイオリンの駒の曲線とを並行して描くことにして、それ造形のために全体の造形を歪めてまでも強調したのであろう。またそれ以外の部分は欠落させたのかもしれない。百合の茎が根元に行くにしたがい不自然にゆがんだり、ヴァイオリンの糸巻きや表板の右側が欠落したり、テールピースの高さが無くなってしまったりしたのであろう。しかしエンドピンの部分の歪みや、弓の歪みはそれだけでは説明がつかない。
高島野十郎は、東大水産学科を首席で卒業するほどの秀才であり、魚介類の観察図を見る限り今私がずらずら述べたような歪みやうねり、欠落などは絵画として、作品として成り立たせるために意図したものであるはずである。決してデッサン力の欠如によるものとは思えない。
あまりに細かいことを見過ぎかもしれないが、当分私はこの絵を見ながらヴァイオリンに現われた歪みやうねり、捩れと対話してみたいと思っている。
この歪みやねじれやうねり、あるいは不思議な遠近法、物体の厚みの不思議な表現が私の感覚と違和感と同時に親和性があることの解明になるかもしれない。
山田敦雄氏は「対象と画面、二つの表面を執拗に追う野十郎は描かれる対象と描いた絵画を外から統合的には眺めない。‥その方法は微分的で、絵画の表面の育成に連れてそこに事物も新たに育成される。‥細胞が隣りの細胞との関係性で次々に生成されるように、線分もまた連続して生成され蛇行する。そのルールは、絵画上のグラフィカルな関係性と一体の野十郎の視覚=触覚=手技を統合した「思考」による。そこに野十郎の絵画の方法の端緒がある。野十郎の「写実」は蝋燭にしても風景にしても、優れて「主観的」で、「抽象的」なのだ」と記している。
理解できるところも多い。しかし未だ私の感覚でわからない指摘もある。しかし何らかの端緒を教えてもらったような気がする。