Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

モーツアルトの音楽

2016年05月17日 13時32分44秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 久しぶりにモーツアルトを幾度もかけて聴いている。ピアノソナタ第15番(K.515)、第18番(K.533/494)、ロンド(K.511)。
 この中ではソナタ第15番がもっとも有名で、15番というのは「旧モーツアルト全集」にしたがった通番。現在は「国際モーツァルテウム財団」による「新モーツアルト全集」にしたがい16番とすることになっているらしい。1788年、モーツアルト32歳の先の作品である。3年後に亡くなるので晩年の作品といえる。
 「初心者のための小さなソナタ」と作曲家自身が名付けた曲で、誰でもがどこかで聴いたことがあるはずだ。ピアノを習う人の使う「ソナチネアルバム」に収録されていて、近所の家か流れてきたことがあるはずである。私はこの第2楽章が気に入っている。
 しかしどうしてモーツアルトという人はこのように美しい曲を湧き出るように書き留めることが出来たのであろうか。演奏する側に立つとどのひとつの音も省くことも、手を抜くこともできない。おろそかにできない音が並んでいる。演奏する側はかなりの緊張を強いられると思う。
 決して饒舌な音の奔出ではない。暖かみのある丸い音が下から湧き上がるように次から次に出てくる。豊かな泉を思わせる。柿田川の湧水群を見るような気分になる。


ふたつの余震

2016年05月17日 11時08分56秒 | 天気と自然災害
 昨晩の茨城県南部の地震の余震と思われる地震が今朝6時55分と57分に起きたらしい。2度目の余震では、私の住んでいるところのすぐ傍が震度2の表示が出ていた。私はまったく気がつかず寝ていた。計測深度は1.5ということで、繰り上げて2と表示されたようだ。
21時23分 M5.6 深さ40キロ (N36.0、E139.9)
 6時55分 M4.0 深さ40キロ (N36.1、E139.9)
 6時57分 M4.3 深さ50キロ (N36.0、E139.9)
 最初の地震は横浜市域では人が感じる揺れはなかったようだ。

 始めは気象庁のHPの画面に表示されているふたつの地震が同一地震をあらわしているのかと思ったが、横浜市域の震度情報の有無によって、別の地震だとようやく気がついた。

 熊本の地震のように余震活動が活発化するのは大変なストレスを社会と人に与える。これ以上余震が起こらないでほしいものである。

 本日は昨晩に続いてモーツアルトのピアノソナタ第15番と第18番を聴きながら、昨日の幹事会で決まった日程をスケジュール帳に埋め込む作業から始めている。
 横浜市域には強風注意報が出ており、強めの雨が降り続いているので、家でおとなしくしていた方がよさそうである。

余震は起きていない

2016年05月16日 23時57分11秒 | 天気と自然災害
 M5.6、深さ40キロということで、余震がありそうな地震に思えたが、今のところ、さいわいにも人の感じる余震は発生していないらしい。熊本の地震が如何に余震がひどいか、あらためて思う。

 実は今晩は、若冲か北斎の絵のひとつくらいを取り上げて感想を書こうと思っていたが、地震ですっかり予定が変わってしまった。どの絵を取り上げようかまだ決めていなかった。地震後、特に何をするわけでもなかったが、友人にメールを入れたりしているうちに時間が過ぎてしまった。
 明日は予定はないが、本日疲れたので休養日としたい。

 さいわいに地震による被害は私の友人の範囲ではなさそうである。
 

茨城で震度5弱

2016年05月16日 22時20分28秒 | 天気と自然災害
 久しぶりに携帯電話の緊急地震速報が鳴った。神奈川県東部で震度4の表示があり、私の住んでいるところも深度4かと思っていたら、横浜市では緑区だけが深度4であった。他の区は震度3以下であった。
⇒【http://www.city.yokohama.lg.jp/ex/kikikanri/eq-data/new_eq/eq_zen/large.html
⇒【http://www.jma.go.jp/jp/quake/20160516213306395-162123.html

 今回の震源の在ったところはしょっちゅう地震のおこる場所であるとおもう。

 強風注意報が出ていて風の音が不気味な時だけに、嫌な感じ、怖い感じがする。風は人を不安にする。地震もまた風以上に人を不安にする。

 エレベーターの閉じ込めなどが報道されているようだ。私はエレベーターでそのようなことに出くわしたことはないが、これはとても不安な事態だと思う。しかも電気が消えたりしたら不安はいっそう高まる。満員ならいっそうつらいだろうし、ひとりではさらに不安でしょうがないと思われる。
 もともと私はエレベーターはあまり使わないことにしている。通常に動いているときでも狭いところに閉じ込められるのは好みではない。しかも聞きたくもない音楽を聴かされる苦痛もある。
 できればエスカレーターを使うか、3つくらいの階なら階段を歩く。一番困るのは階段を非常口として扱い、普段は使わせないビルが多いことである。普段鍵をかけて使えないようにしていたり、使うとガードマンに注意されてしまうことがある。これは消防法上問題のある処置だと思うのだが‥。
 

久しぶりのモーツアルト「ピアノソナタ15番、18番」

2016年05月16日 20時20分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 家についてボーっとしていたら棚に置いてあるモーツアルトのピアノソナタが目についた。内田光子のピアノ演奏で全部で7巻。久しぶりにモーツアルトのCDを聴く気になった。
 録音は1983年。ピアノの曲を聴くようになったばかりの頃に購入したように思う。ピアノの曲が好きになるきっかけは、ショパンのノクターンだったが、次が晩年のブラームスのピアノのソロの曲、次にじっくりと聴いたのがこの内田光子のモーツアルトのソナタだったのではないだろうか。それ以前は管弦楽曲か、ヴァイオリンを中心とした室内楽曲ばかり聴いていた。
 解説に内田光子氏が楽器へのこだわりについて記している。
 「楽器は1962年製のスタインウェイで、細やかな高音部、暖かい中音、そして暗く豊かな低音が気に入っている自分の楽器である。どちらかというと弦と木管、そして人の声に近い。‥ピアニストにとって自分の楽器を使って演奏会やレコーディングをすることは最大の贅沢である」
 暖かみのある豊かな音をめざしている、との思いが伝わる。私はこの思いのとおりの音色に聴こえる。そしてひとつひとつが温もりがあって丸みのある音に聴こえる。

   

今日の仕事はつらかった‥

2016年05月16日 19時45分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の退職者幹事会での作業はとても疲れた。10時過ぎから16時半まで資料の印刷と郵送作業と会議、と同時並行の業務が慌ただしかった。他の役員よりも私は遅れて11時から参加、14時からの全体の会議に臨んだ。それでも半袖のTシャツが汗ですっかり濡れてしまった。

 さすがに疲れて、帰宅途中に焼き鳥屋でカウンターに座るまで、リュックサックがとても重く感じた。
 初めて入った店だがずいぶん安かった。1時間ほどで焼き鳥6本480円とシシトウ2本160円、チューハイ2杯560円、併せて1200円で充分満足して先ほど帰宅。安かったとはいえ、家まで我慢すれば0円であるので、無駄使いと云えば無駄使いであった。

 そういえば昼食休憩を取るのを忘れていた。12時半頃会館の目の前にあるコンビニで野菜ジュースのパックひとつとアンパンひとつを購入して、頬張りながら会館に戻り、そのまま作業を継続していた。
 アンパンの代わりにおにぎりにでもした方がお腹の持ち具合は良かったかもしれない。
 こんなことを記載するといかにも食生活の中身が貧困か、というのを暴露しているようなものかもしれない。ここまで書いてからそう思ったが、今更消すのも面倒なのでそのままにしておくことに‥。



突如として不思議な共鳴をしたブラームスとモランディ

2016年05月15日 23時10分58秒 | 読書
 本日の業務終了。後は友人2名に来週の予定のことでメールを送信してから就寝。どうやら本日中にお風呂に入れそうである。
 本日はブラームスのクラリネット三重奏曲を何回も聴いていた。まさかモランディと感覚的な親和性があるとは思わなかった。音楽と絵画、時々頭の中で共鳴し合うことがある。今回のようにテレビでの取り上げ方で私の頭の中で、突如として共鳴する、ということも昔何回かあったような既視的な体験であった。
 こういう時の思い、ひらめきというのは大切にしたいものである。

 明日は昼から退職者会の幹事会。たぶん夕刻まで目いっぱい慌ただしいと思われる。明日は帰宅後は休養タイムとしないといけないようだ。

手書きのビラの味わい

2016年05月15日 20時59分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 退職者会の全体に配布するニュース(A3版2頁)をつくったばかりだが、本日は同じ退職者会の私の属するブロックの会報(A4版2頁)を作成。つい先ほど出来上がった。これから75部ほどの印刷である。これはカラー版の手づくり。手づりとはいっても「一太郎」ですべて作成するので、昔のような手書きではない。
 手書きの新聞や会報が組合から無くなって多分20年は経つように思う。昔のビラを知っている方からは、手書きの味わいがなくなって寂しいという声もある。一方で現役の組合員の大半は、活字でないと読みづらいという。退職者の仲間もほとんどは活字支持である。
 編集の仕方によってはとても読みやすいものが出来上がる。そのような域に達したいものである。

日曜美術館「埃まで描いた男〜不思議な画家・モランディ〜」

2016年05月15日 18時01分27秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日は「日曜美術館」を見た。「」という題であった。
 「ジョルジョ・モランディ-終わりなき変奏-」展は、東京ステーションギャラリーでの展示がおわり、現在岩手県立美術館で開催されている。残念ながら私は見損なってしまって、とても後悔していた。
 番組に登場した洋画家の入江観氏の語り口に私はとても好感が持てた。そして入江氏の次のような言葉が印象に残っている。

「セザンヌが交響曲ならば、モランディはピアノソナタのような美しさを持っている」
「うまさを自慢するそういうようなところがない非常にたどたどしい筆遣いで描いている」
「(見に)行く度になんか沈黙を求められるような感じがして‥」
「黙って向かい合っている時間の豊かさを感じた」
「モチーフと同化する、そこがセザンヌと違うところ」
「テーブルを舞台にしてドラマが起きるというのは全く同感」
「若い時に未来派や形而上派の運動に若干関わって、かなり影響を受けたと思うが、それに引きずられる事はなかった」
「(僕は)「付加価値のない絵描き」と言っているが、画家はいろんなエピソードがあってそれで世間に知られていくが、モランディはそういう付加価値は一切なく、小さな絵一枚一枚で知られてきた。その魅力は(付加価値を一切ない)力を一枚の絵が持っていたという事がモランディのすごさ」
⇒【http://o.x0.com/m/245422】より

 入江氏は「ピアノソナタ」と言っているが、室内楽と云い直していいと直感した。
 実は昨晩からブラームスのクラリネット三重奏曲を聴いているのだが、日曜美術館で入江観氏のこの言葉を聴いた瞬間にこの曲を思い浮かべた。ブラームスの最晩年の、孤独な独白のようなこの曲を聴いていると、モランディの色調や光の静かな変容とダブってくる。
 ピアノがテーブルという舞台装置であるとすれば、クラリネットとチェロの語り合いを中心に曲が進んでいくと喩えることが相応しい。

ブラームスのヴァイオリン協奏曲のCDを物色したが‥

2016年05月14日 23時42分49秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日中に何とか必要な印刷は終わった。これで明日の日曜日の午後は、予定の「仕事」だけに集中できる。

 明日は休肝日とするつもりでいる。毎日お酒が続いている。何も付き合って飲まなければいいのだが、断れない性分。意地汚いともいう。

 本日帰宅途中に横浜駅でレコード店を覗いた。ブラームスのヴァイオリン協奏曲で、どのようなコンビの演奏があるのか調べてみた。1960年代までの古い録音と、2000年以降の録音があるのだが、1970年代から2000年までの録音のものが無かった。1970年以前のいわゆる大家といわれるヴァイオリニストと指揮者の組み合わせは廉価版でもいくつかあった。2000年以降の若い演奏家のCDは名をほとんど知らないに等しい。誰の演奏が優れていると云われているのか、判断がつかない。最近はレコード雑誌を購入することも立ち読みすることもなくなっている。
 明日以降にレコード店に行く場合には、レコード雑誌の評でも事前に目をとおした方がいいかもしれない。ただしあの「評」というものはあまり信用しない方がいいと学生時代からいわれ続けてきた。自分の耳だけを頼りに「選ぶ」という行為を続けることが出来たら嬉しい。

仕事はこれから‥

2016年05月14日 22時07分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 ようやく18時過ぎに帰宅。組合の会館まで、行きは二駅だけ電車を利用して約6千余歩。帰りは一駅だけ電車を利用して約8千余歩。書店とレコード店を見て回って約2千余歩。合計1万7千歩ほどを歩いた。腰痛が再発してから1万2千歩超えは初めて。ウォーキングほどの速さではなかったものの、気温も高くそれなりの汗をかいた。特に帰りは汗をたくさんかいても問題はないのでかなり汗が出た。久しぶりに気持ちのいい汗であったと思う。
 少しずつ歩く距離を長くしたり、早目のウォーキングに切り替えていきたいものである。

 本日の打合せで昨日までに作った報告書を若干手直しをする必要になり、本日中に仕上げることにした。沖縄旅行参加者向けにカラーで10部、他の幹事向けにはモノクロの原紙を1部作成し、謄写印刷とすることにした。

 高島野十郎の絵についてまとまらないが、とりあえず今感じていたことを文章にして先ほどアップした。自分でもまとまっていないので、人に通じる文章になるとは思わなくもないが、いったんは文章化して見ないことには先に進まない。分かりづらいという指摘や、意味が通じないという批判はそのとおりなので、許してもらうしかない。

 沖縄旅行の報告書をつくりながら、またまとまらない感想を少し整理した見ようと思う。

高島野十郎展(感想2)

2016年05月14日 21時42分08秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 2010年に6回にわたり高島野十郎の作品を私なりに感想を述べた。当時銀座美術館で「高島野十郎と同時代作家展」が開催されでそれを見に行った。図録は無かった記憶があり、「高島野十郎画集-作品と遺稿-」(求龍堂)を5040円で購入した。随分高かったが遺稿集も豊富であった。図版の色調も原作に近くて購入してよかったと思っている。
 今回は2500円で安価であるものの、色調はちょっと色が濃い目である。チラシに取り上げた作品も少し色が濃い。
 私はこの「百合とヴァイオリン」(1921-26)は今回初めて見たような気がしている。実際は見たかもしれないが、印象に残っていない。
 実は今回の展示の目玉のような取り扱いでチラシの表面の半分を使っている。当初暗い色調の画面を見て、立体感もあり、白い百合が効果的であること、さらにヴァイオリンの側面の板にあたる光と百合にあたる光が呼応していて温かみを感じたことで是非見たいと思っていた。
 まず高島野十郎にしては初期の31歳から36歳にかけての作品であることに初めて気がついた。そしてチラシで見たよりも実際の作品には立体感が少ないと感じた。
 実は図録に42~43ページにかけて目黒美術館の学芸員の山田敦雄氏が的確に記載されているが、ここでは私なりの実際のヴァイオリンを机の上に置いた感じとの違いを上げてい見た。重複もあるかもしれない。
 まずヴァイオリンの一番手前の部分の側板の下側が湾曲して机の面との間に隙間が出来ている。ここは本来ヴァイオリンの底の面が外側に湾曲しており、それによって持ち上げられるように隙間ができるはずなのに、反対の湾曲になっている。さらに弦をひっぱっている黒い黒い部分が実際よりも長いためにヴァイオリンの駒よりも人体側が長い。そのためにヴァイオリンの丈が伸びで平べったく見えるようだ。
 また駒も低く描いており、また弦を左指で抑える黒い部分(指板)が机の向こう側の水平線よりも高く描かない描かなくてはいけないのに曖昧に壁の色とまじりあっている。ヴァイオリンの駒よりも上部の右側が欠落しているようにすら見える。
 さらに気になるのは、弦を支える渦巻きが曖昧で画面上不鮮明である。最後に弦であるが、毛の部分が真っ直ぐでなければならないか、毛を緩めている状態ならば毛はバラバラにわかれていなければならない。少なくともひとつの歪んだ面としては描くのは現実味がない。そして弓の木部そのものが歪んでいる。これでは弓としての機能は果たせない。同時に弓の先端が持ち上がっているが、これは弓の先端を高さのあるものに置いているはずなのに、渦巻きに近い方の糸巻きに乗っているようにも見える。これは手前の糸巻きとの関係からは無理な置き方である。
 ヴァイオリンを見続けた私にはヴァイオリンがあまりに薄く見え、また実際の複雑な曲面を無視しているように見えて不思議であった。
 百合の花の茎は、他の高島野十郎の作品の木や芥子の花のように歪んでうねっている。

 私は人工物としての美の極致のようなヴァイオリンの造形と、自然物としての百合の造形が、同時に混在して相互に呼応しているのが手に取るようにわかる。実際とは違った歪みやうねりが、高島野十郎という画家の眼と造形の仕方による必然的なうねりや歪みとして見える。これが高島野十郎という画家の「リアリティ」の出発点のように思える。
 物体の持つ厚みや奥行きを歪めてまでも、あるいは物体のある部分を欠落させても、こだわった点は何なのだろうか。
 この疑問がこの画家の作品鑑賞のポイントだと感じた。
 この作品で云えば、百合という自然物の持つ曲線とヴァイオリンの板が持つ不思議な曲面や曲線との呼応を画家は描きたかったのだと思う。そのために白い百合の花のすぐ下の曲線とヴァイオリンの駒の曲線とを並行して描くことにして、それ造形のために全体の造形を歪めてまでも強調したのであろう。またそれ以外の部分は欠落させたのかもしれない。百合の茎が根元に行くにしたがい不自然にゆがんだり、ヴァイオリンの糸巻きや表板の右側が欠落したり、テールピースの高さが無くなってしまったりしたのであろう。しかしエンドピンの部分の歪みや、弓の歪みはそれだけでは説明がつかない。
 高島野十郎は、東大水産学科を首席で卒業するほどの秀才であり、魚介類の観察図を見る限り今私がずらずら述べたような歪みやうねり、欠落などは絵画として、作品として成り立たせるために意図したものであるはずである。決してデッサン力の欠如によるものとは思えない。
 あまりに細かいことを見過ぎかもしれないが、当分私はこの絵を見ながらヴァイオリンに現われた歪みやうねり、捩れと対話してみたいと思っている。
 この歪みやねじれやうねり、あるいは不思議な遠近法、物体の厚みの不思議な表現が私の感覚と違和感と同時に親和性があることの解明になるかもしれない。
 山田敦雄氏は「対象と画面、二つの表面を執拗に追う野十郎は描かれる対象と描いた絵画を外から統合的には眺めない。‥その方法は微分的で、絵画の表面の育成に連れてそこに事物も新たに育成される。‥細胞が隣りの細胞との関係性で次々に生成されるように、線分もまた連続して生成され蛇行する。そのルールは、絵画上のグラフィカルな関係性と一体の野十郎の視覚=触覚=手技を統合した「思考」による。そこに野十郎の絵画の方法の端緒がある。野十郎の「写実」は蝋燭にしても風景にしても、優れて「主観的」で、「抽象的」なのだ」と記している。
 理解できるところも多い。しかし未だ私の感覚でわからない指摘もある。しかし何らかの端緒を教えてもらったような気がする。

最近は次第にハードな業務量に‥

2016年05月13日 22時52分55秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 ようやく沖縄旅行のときの報告書を作り終えた。写真といくつかのリーフレットなどをちりばめて、辺野古基金からの御礼状を添えてA4版で6頁だて。
 旅行に参加した9人分は印刷する予定であり、退職者会のブログにもアップするつもりでいる。だが、全体への配布はどうするか、これからの相談である。
 10日に水戸・大洗・那珂湊まで行った日帰り旅行の報告書は今月16日の幹事会までには間に合わないが、来月の幹事会までには作成したい。

 スケジュール帳によると、明日は土曜日であるが、組合の会館に取材に行くことになっている。午後からはみなとみらい地区で講座がひとつある。
 土・日にかけて退職者会の私のブロックの会報(A4版で2頁)を作成する予定。

 最近かなりハードな業務量になってしまっている。


高島野十郎展

2016年05月13日 21時06分52秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 久しぶりに高島野十郎の展覧会を目黒美術館で見た。今回初めて見る作品もあり、期待どおりの展示であったと思う。2500円の図録も充実している。
 1941年の作品である「朝霧」。高島野十郎はこのような下草についても執拗ともいえる位に精緻に描いている。そしてとても懐かしく美しい作品であると思う。かといって写真とも違う独特のリアリズムである。



 まだ頭の中の整理が出来ていないので、今回はチラシと展示目録、年譜そして戦争中に描いた「朝霧」を掲載してみる。

      


ブラームス「ホルン三重奏曲」

2016年05月13日 11時31分45秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 ほぼ一年ぶりに取り出して来たCDは「ホルン三重奏曲&クラリネット三重奏曲」から、ホルン三重奏曲をかけながら、沖縄旅行の写真の整理を行っている。
 ホルンの曲は昔はモーツアルトのホルン協奏曲ばかり聴いていたが、このCDを購入してからはこちらの比重が高くなった時期もあったと思う。最近はちょっとご無沙汰足してしまったけれども‥
 昨年6月2日に私は以下のように記していた。

「この曲、ホルンの曲と思っていると出だしがバイオリンで始まりビックリする。しかしバイオリンとホルンの掛け合いが極めて自然に、そして美しい音の重なり合いで無限の波のように繋がっていく。第二楽章はよく聞く曲である。軽快で耳に心地よい。ピアノが全体をひっびっているような感じがする。トリオの少し哀愁を帯びたメロディーがスケルツォと対照的で面白味がある。第三楽章は母親を悼むエレジーだということだが、独立した曲としても聴きたい曲である。バイオリンとホルンが絡むように曲を紡いでいく。第四楽章はバルブがないと吹けそうもない技巧のように思われるような激しい動きのスケルツォである。狩りを思わせる曲というが、ヨーロッパの狩りというのはこのようなものなのだろうか。狩りと云うと息を潜めて一瞬のうちに生死の矢が放たれる緊張を強いられるものと思っている私のイメージとは随分と違う」

 緩-急-緩-急というバロック時代の古い教会ソナタ形式ということを聴いたが、いかにもブラームスらしい選択なのかもしれない。母親の追悼という第三楽章と狩りの情景を念頭に置いた第四楽章が並列というのがなかなか私たちには理解できない組合せではある。
 このホルンの響きを聴いていると、あまり肩肘を張らないで、ちょっと姿勢を崩し、寛いだブラームスを感じることがある。1865年の作品で、ブラームス32歳。ブラームスにしては早い時期の作品である。
 さてホルン、ヴァイオリン、ピアノという取り合わせは珍しいのだが、この曲を聴いていると違和感なくよく演奏される形式のように耳に入ってくる。さすがブラームスという思いがする。Wikipediaの記述によると「同じ編成の曲として、ハンガリーの作曲家ジェルジ・リゲティが1982年に作曲したホルン三重奏曲がある。この曲には『ブラームスを称えて』という副題が付けられている」と記されている。この形式の曲はこの2曲のみと考えていいのかもしれない。
 ホルンをヴィオラに変えての演奏もブラームス自身が認めているとのことだが、この曲のヴィオラ版はまだ聴いていない。今井信子のヴィオラで聴いてみたいものである。