Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

シベリウス「ヴァイオリン協奏曲」

2016年12月23日 18時47分05秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
         

 本日の部屋の片づけ作業のお供はシベリウス「ヴァイオリン協奏曲」。
1.諏訪内晶子+バーミンガム市交響楽団+指揮サカリ・オラモの2002年盤、
2.五嶋みどり+イスラエル・フィルハーモニー交響楽団+指揮ズービン・メータの1993年盤、
3.レオニダス・ガヴァコス+ラハティ交響楽団+指揮オスモ・ヴァンカスの1991年盤
4.シルヴィア・マルコヴィッチ+エーテボリ交響楽団+指揮ネーメ・ヤルヴィの1986年盤
と、4枚のCDが私の手元にある。1、2、4をすでに取り上げているが、今回も4をかけてみた。
 理由は特にないが、この4の演奏が何となく聴きやすい。私なりのシベリウス像に近いのだろうか。ただしどの録音がどのようにいいのか、惹かれることがないのか、分析したことはない。だいたいが4枚も所有しているというのが、私自身にも分からない。購入するときには以前に購入したことを忘れていたのだと思うしかない。
 3.は1903・1904年のオリジナル版、1905年の現在演奏されるファイナル版とを同時に収録している。その違いはまだ分かっていない。
 第1楽章の闇の静寂から最弱音で浮かび上がってくるヴァイオリンの旋律、それを受けて流れるクラリネットとファゴットの低音を聴いた途端に私はもうこの曲の世界に引き込まれる。第2主題のチェロはじっくり味わうまもなくカデンツァの醍醐味に移っていく。第1楽章の後半のヴァイオリンの低音から高音にわたって求められる粘っこい奏法がこの曲の正否を決めるような気がしている。第2楽章はクラリネットなど木管の美しい旋律から始まる。ソロヴァイオリンの出だしが私はとても好みである。第3楽章はリズミカルだが、オーケストレーションの厚みに圧倒される。そして軽快な旋律の中に不安定な要素、暗い情念のようなものを常に感じ取ってしまう。それがシベリウスの魅力だと思っている。
 シベリウスはヴァイオリンの演奏についてはかなりのレヴェルであったこともあり、ヴァイオリンの美しさを十分意識している。特に重音の美しさに私は惹かれる。

本日より部屋の掃除

2016年12月23日 10時30分37秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 深夜3時前には雨の音は消え、風の音もほとんどしなくなった。しかし横浜域では今朝になっても強風・波浪注意報は解除されていない。風は強めであるものの、暖かく、そして湿気の少ない心地よい風に感じる。

 今朝ベランダにセキセイインコを出そうとしたら、少し風が強めなので風が当たる室外機の上ではなく直接ベランダの床に籠をおいてやった。驚いたことにベランダにいつもおいてあるサンダルの一組が風でベランダの端まで移動してひっくり返っていた。風で煽られたようだ。
 我が家は1階なので手摺りから外に落ちても特に他の方に迷惑をかけることは無いが、これが2階よりも上であったら、他人のベランダに舞い込んでいたかもしれない。まさかサンダルが風で移動するとは想定していなかった。植木鉢を隅に押しやり、ゴミ入れや箒などは水の入ったじょうろを重しとして隅にかためておいた。こちらは何ともなかったが、サンダルはそのままにしていた。ゴム製のサンダルは重みがあるのか、動いてはいない。今後は注意を要することがわかった。

 本日はこれから私の部屋の片づけに手を付けることにした。約半年の書類の山、シュレッダーを駆使しながら、捨てるもの、残すもの、残したものの整理‥、考えただけでもうんざりする。

風と雨がひどくなる・・・竜巻注意情報も

2016年12月22日 23時31分35秒 | 天気と自然災害
 横浜ではますます風が強くなり、21時ころから雨が降り始めた。雨の区域は静岡県から神奈川県にかけて広く覆っている。すぐには晴れそうもない。
 セキセイインコも画の音や南側の硝子戸が揺れる音で不安なのであろうか。いつもよりは落ち着きがないようだ。22時になったところでいつものとおり、騒がしく羽をバタバタし始めたので、籠の周りにとんだ羽や餌の殻を掃除機できれいにしてから大きな風呂敷をかぶせた。いつもはこれで静かになるのだが、本日はときどきまだ動き回っている。風がやはり気になるようだ。

 雨の音や、号棟の屋根に降る雨を集めた排水管を流れる音は、風の音に消されてあまり聞こえない。ベランダの硝子戸をあけると勢いよく風が飛び込んできた。ベランダもすっかり雨が吹き込んで濡れている。植木鉢を再度置き直して、固定した。

22時には神奈川県に竜巻注意情報も配信された。

「若冲」(澁澤龍彦編)

2016年12月22日 21時32分27秒 | 読書
   

 昨日読み終えた本は「若冲」(澁澤龍彦編、河出文庫)を読み終わった。この中では「日本の装飾主義とマニエリスム」(澁澤龍彦)、「伊藤若冲-物好きの集合論」(種村季弘)、「博物誌としての花鳥図 伊藤若冲の針穴写真機」(種村季弘)がいろいろな点で参考になった。種村季弘の「伊藤若冲」は、先に読んだ田中優子の「江戸の想像力」と比べながら再度じっくりと読んでみたい。
 学生時代、種村季弘や渋沢龍彦の文章は読みこなせなかった。幾度も挑戦をしてその度に押し戻されていた。歳を取ったのか、今回はときどきつっかえながらもそんなに難しいとは思わずに最後まで読み終わることが出来た。一応進歩したということにしておこう。


横浜には強風・波浪・雷注意報

2016年12月22日 20時39分46秒 | 天気と自然災害
 横浜では強い風が終日吹いている。時々さらに強い風が唸り声をあげて吹く。台風の時のような音がする。南風なのでベランダ側の硝子戸が時々ミシミシという。雨は午前中に降っただけである。
 しかし先ほどレインアイよこはまで確かめたところ、強い雨の区域が伊豆半島を超えようとしている。まもなく降り出す気配である。
 糸魚川市の火事、そして東海道新幹線を止めた平塚の沿線火災と火事のニュースが飛び込んできた。糸魚川市の140棟の火災というものも驚いた。

 私はといえば休養日ということで、しかも強い風がおさまりそうもないので、午後までグズグスとしていた。しかし家でゴロゴロしていて頭がすっきりしないので思い切って横浜駅まで歩いてみた。風は強かったものの暑いくらいの気温でビックリ。
 横浜では風速19.1m、気温20.3℃となったらしい。横浜駅で家電量販店や書店を見て歩いて帰ってきた。途中眼科医により緑内障の点眼薬を処方してもらった。
これから雨の区域が迫って来るようである。夜のウォーキングは諦めた方がよさそうである。 明日は年賀状の図案作成と部屋の掃除を少しだけは手を付けてみようと決意をしているが、果たして気力が湧いてくるであろうか。
 風はこれからもっとひどくなるとの予報となっている。風の音が少しばかり気にかかる。人を不安な気持ちにさせる風の音である。
 またこの年末になって台風26号が発生してフィリピンに向かっているという。

 部屋の掃除をスムーズにするために片付けなくてはいけないことが少しばかりある。本日はそれをこなして早めに寝てしまおうと思う。

横浜では突然の雨と風

2016年12月22日 12時51分22秒 | 天気と自然災害
 1時間ほど前にわが団地のあたりは突然の強い雨と強い南風。30分ほどで上がったが、ベランダのいくつかの不安定な鉢が倒れ、鳥よけの透明のビニール傘が風で煽られてベランダで転がった。慌てて片付け、洗濯物を取り込んだ。夜から雨が降るという予報だったのでとても驚い。
 横浜市内では時間換算雨量が50ミリの区域も北上していったところがあるようだ。
 現在はわずかな雲の切れ目から太陽が顔を出しているが、それでも全天がほぼ雲に覆われている。

 本日は休養日&休肝日。

加藤楸邨句集「野哭」から

2016年12月22日 11時34分18秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 「野哭」は次の言葉書きと作品からはじまる。戦争末期の東京で空襲の恐怖におびえながら「火の記憶」という句集を上梓した加藤楸邨は、戦後すぐに句集「野哭」を上梓する。その最初に位置する「流離抄」は1945年5月から1946年7月までをおさめる。1945年5月からと記されているが、最初の句を見る限り8月15日以降の句が並んでいる。

 この書を
 今は亡き友に捧げる
★火の中に死なざりしかば野分満つ

 句集の始めの5句を並べてみると、
★一本の鶏頭燃えて戦終る
★富士の紺すでに八方露に伏す
★わが家なき露の大地ぞよこたはる
★かくかそけく羽蟻死にゆき人飢えき
★飢せまる日もかぎりなき帰燕かな

 暦の上では秋となる時節、東京で家も焼かれた作者には、焼け野原となった東京は富士にひれ伏したような古代の武蔵野の情景に見えたのかもしれない。羽蟻のように死んでいった人々と、残されたものは生き残った者の安堵。しかし生き残った作者の家族も周囲の人々も、戦時中と同様焼け野原で飢えている。燕も飢えているのか南国へ去ってしまう。まだくすぶり続ける焔のように一本の鶏頭の赤が焼け野原に根付いている。それは救いと希望に変化するのか、生への意志となり得るのか。

 さまざまな想念がこれらの句にこめられているようだ。空襲の日々をつづった「火の記憶」には詞書が執拗に、過剰にと思われるくらい添えられていた。たぶん俳句という表現の限界を超えるような事態を前にした精一杯の試みだったのではないか。例えば「冬天の一火焔となりて消ゆ」などは「体当たり自爆機望見」という詞書がなければそれだけでは意味が通じることはなく成立しない句である。この詞書によって私たちの胸を打つ句となる。
 しかしもう戦のない世界に戻るやいなや言葉書きに頼らない句が並ぶのは象徴的である。戦後の俳句の言葉の豊饒さを求めてさまざまに開花し、そして消えていった多くの試みを予見するような句に私には思える。


本日の欲張りな予定‥

2016年12月21日 10時28分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 新聞の編集作業が終了。本日朝一番で最終原稿を送信した。
 本日は、日本大通りの近くで10時から打合せとその後は昼食会。18時からこの会場の近くで、寺島実郎氏の講演会。昼食会が終わるのが、14時くらいとして18時までの4時間の過ごし方をどうするか思案中。鎌倉街道を鎌倉方面に向けて往復2時間ほど歩いてみるのもいいかもしれない。折り返し地点で喫茶店があれば読書時間も確保できる。
 講演会終了後は立食パーティーだが、軽くビールでお付き合いしたのちは早めに自宅に向けて夜のウォーキングとしたいと思っているが‥。
 

加藤楸邨句集「火の記憶」から その4

2016年12月20日 22時18分01秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 引続き加藤楸邨の「火の記憶」からいくつかを引用してみる。

★ものいへば傷つくごとく冬の黙
★枯木に沿ふ焼夷弾道は見了んぬ
★鉄兜脱げば背に負ふ天の川
★黙ふかく冬の夜汽車を誰も聴く
 その夜、学校に泊まる、午後七時、B二九来週、胃痛し、裏手の海中に炸裂、高射砲音下苦痛に輾転
★地に伏せし身のまはりみな霜柱
 十二月二十七日、正午、七編隊五十数機侵入、折しも神田近江屋洋品店にあり、体当たり自爆機望見
★冬天の一火焔とぞなりて消ゆ

 命が粗末に扱われた戦争の最末期、ひとりの若い命は「冬天の一火焔」として「消える」。この一火焔にはどのような人生への執着があったのであろうか。何百万の命と、そして一人の若者の死。私たちはどのように拮抗できるのであろうか。

加藤楸邨句集「火の記憶」から その3

2016年12月20日 17時28分46秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 三月十六日、午前警報あり
★冴えかへるもののひとつに夜の鼻

 三月十七日、午後警報、義兄矢野徳三郎一家再度焼亡、無事訪ね来る
★木の芽だつ生きて逢とも言寡な

 三月二十日、一機侵入
★牡丹の芽萌えむとすなり見ておかむ

 三月三十日、西小山付近強制疎開、三月三十一日、一機侵入、四月一日晴、南西諸島激戦報、一機東京に入り投弾、四月四日払暁、空襲
★髪焦げて教へ子は来ぬ桃を抱き

 すでに3月の段階で、作者は空襲による被害をただ見ていることしかないことを否応なく知ることになっている。しかしただ「眺める」ことには終わらない。3句目の「見ておかむ」のように、すべてを意志的に「見」ようとしている。その強い意志も感じることもできる。人間の打ちのめされる面と、意志的な面、それはどちらも人間の側面である。

加藤楸邨句集「火の記憶」から その2

2016年12月20日 10時18分45秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 1944年秋から1945年夏までの句をおさめる。最後の4句から

 四月三十日、大編隊東京西北方に入る
★陽炎を負ひて家なき顔ばかり

 五月二十三日、夜大編隊侵入、母を金沢に疎開せしめ、上州に楚秋と訣れ、帰宅せし直後なり、わが家罹災
★火の奥に牡丹崩るるさまを見つ
 
五月二十四日、一夜弟を負ひ、長女道子、三男明雄を求めて火中彷徨 二句
★雲の峯八方焦土とはなりぬ
★明易き欅にしるす生死かな

 東京は1944年11月14日以降100回を超える空襲を受けたが、それを時系列に詠んだ句が並ぶ。加藤楸邨も自宅が罹災している。
 4句とも、情景を技法など凝らさず記しているという印象である。悪く言えば即物吟である。しかし私は東京が焦土と化し、人間の命も尊厳もすべてが奪われる状態の中で、なすすべもなく茫然としつつ、家族を抱えて生き抜くことにのみ放浪された人間の姿を見ることが出来るとおもう。
 そんな中で一見わかりやすい情景だけを詠んだ句に見えるが、二句目「火の奥に牡丹崩るるさまを見つ」はながなか劇的にも読める。庭の牡丹なのか、家の中に活けていた牡丹なのか、あるいはまきあがる炎そのものが牡丹に見えたのか、いづれかは判然としないが、家族の一切の思い出と歴史を体現していた家を焼夷弾による高熱の炎になめ尽くされる作者の、手の施しようがないことへの怒りや諦念を読み取ることが出来る。もやは人の力や意志は何らかの処置を施すことすら考えられない事態を前にした、人間の感情が露呈している。

 戦争が戦後70年で再び露出してきた、そんな政治の貧困を前にして、記した。

「石田波郷全句集」から2句

2016年12月19日 23時42分32秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 風呂が沸くまでの間、石田波郷の句集をめくってみた。冬の季語を順繰りに追っていくうちに次の2句が目についた。
 夕方から夜にかけてのウォーキングで見た景色や、妻と近くのコンビニに翌日の朝に飲む牛乳などを買いに出た時の情景を思い出した。特に優れた句には思えなかったが、自分の体験が目に浮かぶ句は、それはそれで楽しい。

★街みれば枯木ははやも夕づける     石田波郷
★妻と二人枯野の月にかくれなし     石田波郷

 特に2句目、月は多分真上にあるのだろう。満月に近い月だとおもう。蕪村の「月天心貧しき街を通りけり」を思い出す。この蕪村の句、中学校の頃、国語の先生に街を通るのは作者ないし人が通るのを作者が眺めている情景と教わった。高校のとき、別の先生から「街を月が照らしながら傾いていく」との解釈を披露された。私はそれだと時間の流れが長すぎて、すっきりしなかった。ここはやはり人がひっそりと通っていく情景だという思いが強い。
 石田波郷もそのように解釈していたのではないだろうか。

安くすんだ忘年会終了

2016年12月19日 23時01分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の幹事会で締め切った会員からのコメントは実に15通も追加となった。嬉しいと思いつつも、本日中の打ち込みは諦めることにした。
 持ち寄りのツマミが沢山出たワンコインの忘年会終了後、いつものとおり酔い覚ましに歩いてきた。帰途は約1万4千歩であるから8キロ程であろうか。石川町駅から関内駅、桜木町駅、横浜駅を通過して、さらに遠回りをして帰宅。思ったほど寒くはなかった。そしてだいぶ酔いは醒めた。が、さすがにくたびれた。午前中にあるいた分を合わせて2万3千歩ほどになった。
 疲れて作業をすると混乱したり、間違いをしたりしそうである。
 帰宅後の熱い煎茶が実に心地よかった。3杯ほど飲んで、一服。途中でウーロン茶を300ccほど。ウォーキング中はウーロン茶が好みである。最近は自動販売機でウーロン茶をあまり見かけなくなった。圧倒的に煎茶が多い。もっとも自販機は高いので、ほとんどはコンビニか、さらに安いスーパーで購入することにしている。コンビニやスーパーではほぼ間違いなく取り扱っている。
 私はコーヒーは必ず無糖のものを購入するが、ウォーキング中は利尿作用が強いので、避けている。
 さて今夜は長湯をしてから就寝としよう。

本日は朝から会議と忘年会

2016年12月19日 13時58分27秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は午前中から会議が続いて、14時から退職者会の幹事会。たぶん16時くらいからワンコインでの飲み会兼忘年会になる予定。飲み会の設営は他の幹事がするが、後片付けは当然にも分担。そのままお開きとなれば、早めに帰ることができるが、果たしてそのとおりになるだろうか‥。
 新聞の編集作業は終了。本日のの幹事会直前に持ち回りの編集会議で最終チェックをすれば水曜日の夜に最終原稿が出来上がるはずである。
 明日火曜日は友人と軽く飲み会。明日は10時半から打合せ、18時から講演会と簡単な立食パーティーとなるとの情報。講演会が終了したらパーティーにはでないで、急いで帰宅しないといけない。ついでに休肝日&休養日としないと体がつらそう。師走も後半になってから慌ただしい。愚痴が多くなるのは精神的に危機かもしれない。