芋焼酎はいかがですか?

英国の情報交換の場であったコーヒーハウスで芋焼酎はいかがですか?

聞くこと、見ること

2007-10-22 22:01:38 | Weblog
 自分の顔、姿を直接自分で認識することは出来ない。写真に写った自分の顔に何か違和感を感じたことはないだろうか?これって私?それは、美男、美女というくくりではなく、自分てこんな顔だったっけ?思うことを経験したことは誰にでもあるのではないか。写真以外にも今、直接、鏡に映っている自分の顔を見てもこれが自分の顔だろうかとの疑念を感じてしまう。
 では、他者が私の顔として認識している「もの」は私自身が鏡に映しだした「もの」と果たして同一であろうか?若干の違いがあるのではないだろうかとの疑問が生じた。その理由は、声である。レコーダーに録音した声を再生して聞きなおしてみると、自分の声なのに何か違和感を感じたことはないだろうか?それを確認するために家族や友人にそのレコーダーの声は、私の声と同一かどうかを質問した経験も多くの人があるのではないかと推察される。同じであるとの返答をもらっても何か納得がいかない気持ちが残ったりするものである。
 声だけでも、自分と他者における認識の差があるとすれば私自身に対しての印象や、人物像は随分異なるものとなるのであろう。人は、役割を通じてそれを取得すると言われている。警官を例に取ってみると、警官は正義感があり真面目であるという職業上の役割がある。その業務に就くことによって多少不真面目な人も役割を取得していくに違いない。警官の不祥事が新聞沙汰になることがある。それは、警官が起こす事件が如何に少ないかを表してもいるのだ。だって犬が人間を噛んでもニュースにはならないが人間が犬を噛んだらニュースになることからもそれは明らかなのである。
 では、私って何者だろうか?真面目でもあり、不真面目でもある。実はスケベでもあるのだ。職場での私はどのようにとらえられているのであろうか?家庭では?気心知れた学友にとっては?すべてほんとの私だが、すべてにおいての違いがあるのも事実である。私って何者?それは大きな問題である。
最近私の身の回りで、他人が信じられないと他人恐怖に陥っている若者がいる。「私に対して話していることは本当?腹の中では違うことを考えているのでは?他者が信じられない。」そのような気持ちや落ち込み、そしてそれに伴う孤独感は青年期特有の現象であり、「社会的なスキル不足」と教育の分野ではとらえる傾向にある。(先日読んだ専門書にそのような記述がありました。)でも、年齢とともに経験してきた社会的スキルを有している中年オヤジの私でも悩むのである。他者の視線や評価も気にかかることも事実である。他者がわかっても、自分が思う自分自身がわからない時もあるのだ。いったい私って何者?
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