先日、次の毒書会でファスト教養のことを取り上げる旨を書いたが、本を読む前にあれこれ考えていく中で、すでにして結構な分量の覚書ができあがったので、現段階のものをアウトプットしておきたいと思う(なお、詳細を述べていくと膨大になるので、あくまでエッセンスだけを抽出し、以後の記事で別途補足説明していく形態をとる)。
考えれば考えるほど、このテーマは「教養とは何か?」という問いを超えて、「幸福とは何か?」「どう生きるのか?」といったかなり大きなテーマとも連動してくることがわかり(例えば「ファスト教養」に、従来型の教養ではなく、「スローライフ運動」を対置するなど)、先に『映画を早送りで観る人たち』に関連する所属の欲求・承認欲求の問題をまとめておけばよかった・・・と少し後悔している状況である😅
ちなみに、今の段階で言ってもピンと来ない人もいるだろうが、最近の「日本人の『適応力』が、地域社会の崩壊や人々の孤独につながる 宮台真司が指摘する、日本人の『学習志向』がもたらす弊害」がよい補助線になる。2013年の「国際成人力調査」では、日本人は他国よりも社会適応力が高いという結果が出ている。ならばそれは素晴らしいことではないかと思われるだろうが、ここでの問題点を一言で言うなら、「システムへの過剰適応」である。以前書いた記事になぞらえれば、「自由意思でAIの『奴隷』になっチャイナよ!などと関連するが、もう少し違う角度で言えば、「Ado『うっせえわ』に見る、『ノーマライゼーションの地獄』と苛立ちの吐露」のような話にもつながってくる。こういった視点は他にも適応でき、たとえば美徳のように語られがちな日本人の「忍耐力」が、社会・個人の状況によって良い方向にも悪い方向にも作用しうるのとつながり、私が日本という国がゲームチェンジャーになれると思わない理由にもなったりする・・・という具合にどんどん広がっていくので、さっさと覚書に移るとしよう。
1.
「ファスト教養」やそれを良しとする態度は、個人的には全く受け入れられない
2.
とはいえ、限られた時間と膨大な情報量の中で、必要な知識を得なければならないため効率の良さが極めて重要になってくる→「ファスト教養」に強いニーズを感じるという状況はよく理解できる(そこには十分な必然性がある)。
3.
よって、「ファスト教養」を求める個人の嗜好(他者)や風潮(社会・公共の領域)に掉さすことを求めるなら、そのマイナス面を定量的・定性的な形で明確に示す必要がある(相手が「コスパ厨」=「合理性の奴隷」のような存在なら、その土俵に乗って説得してみては如何?ということ)。あるいは論理で説得が難しいというのなら、どのような表現を用いればより多くの対象に届くのか吟味をしなければならない(言い換えれば、「ファスト教養」をただ腐すような言動を垂れ流したところで何も変わらないし、遠くない将来に「老害」的扱いを受けることだろう)。
ちなみに次の4で述べる理由からも、数値的根拠や論理性に基づいた説得は困難を極めることが予想される。
4.
そもそも、「ファスト教養」を批判し、従来型の教養の必要性を説くにしても、その「教養」自体に様々な定義があり、意見の一致を見ていない。詳細は別途述べるが、そのカテゴリーでは「理系」に属する知はしばしば軽視されている印象を受ける。例えば漢詩の知識や「漁夫の利」のような著名な文章の認知を教養と述べることに異議を唱える人は多くないだろうが、一方でド・モルガンの定理(集合論)を教養とみなす意識があるようには私は思えない(私が以前の記事で、集合の記号を用いて『論理哲学論考』を書いたヴィトゲンシュタインを事例に取り上げた意図はそこにある。ちなみに私は、高校で教わるレベルのことを「教養」とみなしてはいない。ましてそれを暗記しているだけなら猶更である)。
このような偏りの認識が妥当であるなら、巷間述べられる「教養」なるものはせいぜい「文化人のポジショントーク」、何となれば「文化人のマウンティング」とも言うことができ、そういった見解にどう反論するのか(できるのか)聞きたいところである。
この点に関しては、以前ブルデューの『ディスタンクシオン』について触れたが、カール・マンハイムやタルコット・パーソンズの「知識社会学」(あるいはさらに遡及してマルクスやヘーゲル)を思い起こすのも有益だろう。
(続く)
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