昨日は「ファスト教養」とそれが広がる背景について説明しつつ、自身は「ファスト教養」を受け入れるつもりはないこと、そもそも対置される「教養」自体があやふやなこと、よって「教養」を重要なものとして勧めることの困難さについて書いた。
今回は、「ファスト教養」が求められる背景などについて書いていく。なお、覚書のため内容が前回と重複する部分も少なくない点ご了承いただきたい(元の覚書と項目の順番だけ入れ替えている)。
5.
「ファスト教養」を「教養」という視点から説得しても効果が薄い理由の一つとして、それを求める心性や、そこに追い込まれる十分な背景が存在することを理解しておく必要がある。大まかにまとめれば、以下のような具合である。
(A)
かつての科学革命から始まる社会の変革にも見られるように、モダンは科学の進歩による世界観の変化ということがしばしば起こっていた(ダーウィンの進化論はその一例)。しかし、経済発展の結果20世紀の後半からいわゆる成熟社会=ポストモダンの世界になった時、そこでは成果が出るか、将来何の役に立つか不透明だが世界を大きく変えうる「理学的な知」よりも、手っ取り早く役に立つ・利益を生む「工学的な知」が強く求められるようになった(これは今日の日本で、政府主導で「決められた年限で利益につながる成果を出せ」という要件の元に助成金が配られたり、あるいは文系不要論が出てくることを思い起こせばよい。つまり利益を出さねばならない企業=経済領域だけでなく、その価値観がアカデミズムをすら浸食しているということである)。つまり、迂遠なパラダイムシフトよりも実用的な知を重視するマインドは昨日今日始まったものではない。
(B)
世界に流通する情報量は日々膨大な速度で増え続け、しかもそれがネットを介してどんどん押し寄せてくる(そこには間違った情報や不確かな情報も多々含まれる)。そこで一つ一つを吟味したり、クロスチェックをする時間はないので、わかりやすくまとまったものを摂取しようとするようになる(「90分でわかる~」のような本や、まとめサイト、動画切り抜き等など)。
(C)
そのような環境において、弱肉強食を主軸とする新自由主義的発想が経済界を中心に広がっていることも影響する(ここには既得権益問題のねじれもあり、単純には述べられないが。またそれを軸にコモンズのことを考えることも重要だろう)。つまり、スピーディーにエッセンスを飲み込み続けなければ、置いていかれて無用の存在になる、という意識的・無意識的な恐怖である。
(D)
日本の場合には、少子高齢化や経済衰退の兆候が数字で観測できるし、いわゆる「アンダークラス」が増えるという予測もされている。かかる状況を踏まえると、色々な可能性を求めて試行錯誤するのではなく、堅実な成功を求めて最短ルートで走らなければ!という価値観が特に醸成されやすい(前回引用した宮台真司の日本人の「適応力」→過剰適応の件も参照)。これは、日本という社会が極めて自己責任論が強く、失敗したものを包摂する必要はないという志向性を持つ人が多いことも関係していると思われる。つまり、失敗しないためには、置いて行かれないためには、「無駄」なものは徹底して省き、合目的的な情報を次から次へと摂取し続けようとする、というわけである(そしてこれが「情報のフォアグラ」になる必然性だ)。
(E)
『映画を早送りで観る人たち』に関する記事の続編で書く予定だが、さらにここにはグループや企業といったものへの所属の欲求や、SNSなどによる承認欲求も深く関係していると思われる。つまり、倍速視聴してまで周囲の流行にキャッチアップしないとハブられるという不安・恐怖(→「なぜ『共感』の称揚は危険なのか?」)、あるいは「ファスト教養」のような形で最低限の素養(?)を身に着けていないと会社や社会からハブられるという不安・恐怖が背景にあるのではないか、ということだ。この見立てが正しいとすれば、「ファスト教養」に「教養」を対置して後者を強く勧めてもほとんどの場合無効だろう。それはせいぜい、「パンがなければブリオッシュを食べればいい」という類の、時間的・精神的・経済的余裕がある人間の無理解な言動としか映らないからだ(「『コスパ』思考の全面化と人間関係への影響」などを参照)。
6.
「ファスト教養」に対置される従来型の「教養」自体、その範囲が曖昧で合意形成がなされておらず、それが必要と言う人も不要という人もそれなりの数いた(マンハイムらの知識社会学などでも指摘されているように、知のパラダイムは時代によって変化するものであり、「教養」を不変の真理のよう語ることはそもそも不可能である。これはポストモダンの知的ベクトルという視点で後述する)。
これが「ファスト教養」を求める人に「教養」の重要性を説くことにつきまとう原理的困難さであり(なんであなたの恣意的な「教養」に私たちが従わなければならないのか?)、さらに言えば、そういう輪郭のあやふやな「教養」の上澄みを抽出・強調したものが「ファスト教養」なのではないか?
そのように、「ファスト教養」に対する批判的視座が、「教養」なるもののカテゴリーやその重要性をぼんやりと信じている自身の認識自体への問い直しであるかもしれない、という真摯な内省を一体どれだけの人間が理解しているのだろうか
7.
「教養」の重要性を語る時、「人生の豊かさ」というような、直積的利益にはならない効用を説く人たちは多い。しかしでは、「人生の豊かさ」とは何だろうか(そもそも「生きる意味」=ゴールすら合意できないのに、生における「善」はどのように措定するのだろうか)?それはどれだけ広く、深く、合意形成が可能なものなのだろうか?
別の言い方をすれば、「ファスト教養」を求める合理性(その実は限定合理性)の塊のようなメンタリティに対し、後期ハイデガーのような、ある種詩的言語でしか説明不可能な(証明困難な)価値観の問題を説得的に語らなければならない・・・という困難さをどれだけ理解しているのか疑問である。
そういったスタートラインを正しく理解することなしに「ファスト教養」を批判しても、それはただの価値観の押し付けでしかなく、「近頃の若い者は・・・」というレベルの愚痴・マウンティングとさして変わらないのである(少なくとも、そうとしか受け取られない可能性が極めて高い)。
これが多様性を重視する傾向が強まっている今日において、大した効果を生まないことは容易に理解できるところだろう(ここでローティのリベラルアイロニズムを思い出すのも有益だ)。
だから例えば、「ファスト教養」という形で簡略化・単純化された知が、実は陰謀論やそれを求める心性と近似であり、社会の複雑性や他者理解から遠ざかる性質のものだということを実例をもって示すことが歯止めをかける説得材料として最低条件必要なものと言えるだろう(これが前に述べた定性的・定量的な視点からの説得ということである)。
以上を正しく踏まえれば、「教養」をもって「ファスト教養」を批判することにはそもそも困難が伴うのはもちろん、「ファスト教養」を志向する人々への訴求力はほとんど無効に近いことが理解されるのではないだろうか(何度も言うが、その時には「うっせえわ」の歌詞を思い出すとよい)。
その意味においては、「ファスト教養」に対置すべきは「教養」ではなく、むしろ「スローライフ運動」のような「私たちはどう生きるか?」という価値観の方ではないかと思われる。
ともあれ、このような理解を軸にしつつ、次の毒書会では「ファスト教養」が求められる背景やその対応方法に関する考えを深化させていきたい次第である。
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