広く共有されていない事を、常識とは呼ばない

2019-09-14 17:31:10 | 生活

 

不文律っていうのは、流動性の低い社会でならそれなりに有効性もあるだろう(いわゆる「阿吽の呼吸」的な幻想が通じるので)。しかし、流動性が高く多様性のある社会になったら、「常識でしょそれ」と言われるものでも、よくよく考えたら「え、じゃあそれっていつどうやって共有するシステムになってんの?」と疑問に思われるケースも少なくない。

 

たとえば結婚式や葬式の作法なんかがそうで、いくら包むのかが妥当とか服装の是非とかいうのは、親類が身近に複数いて教えてもらったり自然と身についていった過去と違い、情報を取りにいかなければ体系的に知りようがない。

 

ただ、今はネットですぐ調べられるのも事実で、それにより代替は可能だ。とすれば、学校教育の段階で「調べておくと、いざという時に困らない事柄」みたいなのを複数取り上げ、それを実際に生徒に調べて来させ、由来や地域性とか含めて発表させると色々なプラスがあるんじゃないか?その効果とは、

1.慣行を知れるため実用的

2.歴史などの勉強にもなる

3.実は諸説あることがわかり、統一的な何かがあるという認識は幻想だと知れる(言説へのメタ視点が身に着く)

といったものである。

 

今の教育のあり方ということで言えば、いきなり遠くの国のボーキサイトがどうこうと説明したり、いきなり漢文の句法を教えたり、いきなり三角比の定義を説明することに何の意味があるんだろうか(昔の俺もわからんかったし、今もわからん)?

 

漢文なら、「現代の文章→明治・大正期の文章→擬古文→古文・漢文」て流れじゃダメなのかしらん?それなら今の言葉の成り立ちとの繋がりという視点(日常・具体から歴史・抽象)で塑行することになるし、明治・大正の思想や歴史についても触れることになるんで、国語だけやのーて日本史や倫理ともつながったりするっていう、今流行りの「科目の垣根を超える知識」とやらも養成されるんじゃないかと思うんだが(それとも漢文は漢文自体として学ぶ意味があるとでも?)。

 

あるいは三角比なら、ピラミッドの建設とか測地術の話から入れば、今その知識がどう生かしうるか、あるいはどういう経緯で生まれたかもわかるし、ついでに世界史や地理にもつながるって話である。

 

まあ今みたいな例だと教える側にとってハードルが高すぎだとしても、冒頭で書いたように日常で役立つ知識をそのまま広げたり、深化させたりして学びにつなげればいいんじゃなかろーか(たとえば葬式なら、黒の服を着るのは伝統のように思えるが、これは明治期に欧米文化を取り入れたことに由来する=日本固有のものではない。また仏僧が葬式を執り行うのも仏教伝来からかなり時間を経て定着したものだ)?日常をスタートラインにした学習にした方が、いくらでも受け手を巻き込めるし、それがそのまま学びの意欲・意味付けに直結するので楽じゃないかな?

 

まあもっとも、今やYou Tubeみたいなツールもあるんで、こんなとこで公教育にゴニャゴニャ言ってないで、自分で色々試行錯誤してみなっせ、て話なんだけどな(・∀・)

 

・・・てなことをウズベキスタン旅行の時に考えたりしてたんで、これについてはまた機会を改めて述べたいと思う。


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